四輪クドウの独り言

見えたまま、聴こえたまま、感じたまま…

投票を棄権するものは「権利の上にねむる者」と丸山真男氏が・・・

2013-08-25 21:06:40 | 日記

●昨夜は、サンマンション北本の納涼祭が開催されました。今年はフランダンスが余興として登場しました。仲間と生ビールで「納涼」しました。

 

ワコーレマンションの納涼祭にお招きいただき行ってきました。サンマンションの倍の居住者ですから、人の出も多く、イベントも盛りだくさんでにぎわっていました。マンション協議会を作ろうと提案ありました。

 

●今日は朝から雨模様。防災訓練の日でしたが、市民からの相談事があり9時30分ごろに会場に行ったが、早仕舞いなのか職員が後片付けしていました。帰りに、東間の知人宅を訪ねたら、早速「新駅の住民投票」の話題になりました。「北本市は狂ったね」ということば。自治体に関わった人ですから、議会の議論が拮抗しているとか、住民が賛否で分かれていることが騒動になっているということでもないのに、いきなり住民投票は、このような乱暴なやり方が許されるのと問い詰められました。この辺の人は、何がなんだか分からんから、投票に行かないのでは・・・。それを狙っているというなら、住民投票をもてあそぶと厳しく指摘されました。

●知人からメールで、今日の日経新聞の「風見鶏」というコラム(特別編集委員/伊那久喜)を送ってくれました。これを読むと「石破自民党幹事長がテレビ番組で、改憲のための国民投票に「投票率が3割、4割で、本当に主権者が意思を示したことになるのか」と最低投票率の導入を示唆した取れる発言をした。小平市の住民投票は投票率50%未満なので無効になった。これを護憲派はうれしい。改憲派は逆である」と論じています。そのうえで、「戦後民主主義の価値を強調した政治学者の丸山真男は、『日本の思想』に『権利の上にねむる者』という節がある。憲法12条に『この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない』とある。丸山氏は『国民はいまや主権者になった。しかし、主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある日目覚めてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態がおきているぞ』と警告した。」と書いています。

●そして「選挙で投票しない人を棄権者という文字通り権利放棄者である。『権利の上にねむる者』であり、丸山説では保護に値しない。もし護憲派が『棄権』を呼びかけるとしたら、改憲派は『投票に行こう』と呼びかけるであろう。棄権が、護憲という現状維持の支持を意味する事態は選挙でいえば、市長選で現職と挑戦者が立候補すれば、挑戦者の得票は選挙での得票だけだが、現職の得票は選挙の得票に棄権者数が加算するようなものだろう。」と論じています。なぜ権利の上にねむっていてはいけないのか。丸山氏によれば、「ナポレオン三世のクーデターからヒットラーの権力掌握に至るまで、最近百年間の西欧民主主義の血塗れた道程が指し示している歴史的教訓」だからであると結んでいました。

●投票棄権者こそ、最大の結果責任者であるともいえるのであろうか。権利放棄による投票率が低くなればなるほど、棄権者の責任が重くなる。これが民主主義と丸山真男氏は言うのであろうか。住民投票条例はこれから審議され、結果がどうなるか予断を許さない状況ですが、「新駅」は投資金額も大きく、住民投票で決めるのは一つの方法です。しかし、、今回の実施には違和感を持っています。実施されるとしたら、まず「市民が判断できる全貌と財源、効果、税負担など説明」と「住民への投票参加の呼びかけ」を行い、10年後、20年後に悔いの残らない住民投票でなければならないでしょう。「棄権」は「危険」ということ。権利放棄は、戦後民主主義を得るために、戦争で亡くなられた同胞への、最大の裏切りかもしれません。結果として・・・

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