鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その11

2013-12-13 05:48:58 | Weblog

 左手(南側)に松並木のある舗装道路を、半ば草に埋もれてしまった遊具や朽ち果てようとしている木製遊具やベンチなどを見ながら引き返し、もとの道(県道桐生新田木崎線)に戻ったのが8:38。

 通りに出て後ろを振り向くと、赤城山が独立峰としてくっきりとした山容を見せています。

 空にはほとんど雲はなく、冬の凛とした青空が広がっています。

 やがてその通りが大きく左方向へとカーブし、一方旧道としてあったであろう直線的に続く道とが分岐する地点が現れました(8:42)。

 旧道の方はもう車が入れない状況になっています。

 私は、もちろん左方向へと大きくカーブしていく新道ではなく、今まで歩いて来た道と直線的につながっていく道へと入りました。

 その道を進んで行くと、右手の電柱に「小金井21」と記された長方形の表示が貼られているのを見つけました。

 このあたりは「小金井」という地名らしい。

 まもなくその道は県道39号線(足利伊勢崎線)にぶつかりました。

 右折していけば、伊勢崎に至り、左折すれば足利へと至ることになります。

 足利の五十部村(よべむら)代官の岡田東塢(とうう・立助)が、書画会が開かれる前小屋村へと向かった道は、この道ではないかと思われました。

 この交差点から、幅が急に狭まった道が、手前に藪木のようなものを両側に見せながら南方向へと延びています。

 今までほほ真南方向へと直線的に歩いて来たことを考えると、ここで伊勢崎方面へと右折してしまうのも不自然のように思われ(南へ延びる道がないのならともかく)、かつての旧道のように幅の狭い、南方向へと延びる道へと入って行く方が自然だろうと判断し、その先がどうなっているのかを確かめるべく、その道へと入って行くことにしました(8:46)。

 しかしまっすぐにずっと続いて行くのだろうとの推測に反して、その道は用水路沿いの白いフェンスへとぶつかり、その用水路隔てた南側には2階建ての一軒家があり、道はフェンスに沿う形で両側へと分かれていました。

 そこでぶつかったところで右折し、右側に畑の広がりと遠くの赤城山の塊りを眺めながら、用水路(フェンス)に沿って進み、橋が架かっているところで左折しました。

 そこから通りを南進していくと、右手に、三重塔を模した変わった形の鐘楼を見掛けたので、境内に入って確かめたところ、それは「東雲寺」というお寺でした。「新田百観音霊場」でもあるようです。

 鐘楼は鉄骨構造の新しいものですが、この地域に古くからあるお寺のよう。

 通りに戻って南進すると、道端に真新しいタマゴ自動販売機が置いてありました。私が今まで見掛けたタマゴ自動販売機の中でもとびきり新しいもの。

 販売機には「養鶏場直売新鮮鶏卵」「農場直売」とステッカーが貼られていました。

 値段は、共通料金になっているのか「200円」。

 「警報機付」「「警官立寄所」といったステッカーも貼ってある。

 「あっちゃん」という名前の、「警報機付」の最新型タマゴ自動販売機であるらしい。

 途中で、道端の垣根を整えているおじさんに、「この道は旧道ですか」とお聞きすると、「この道はゆるやかに曲がってつづいているでしょう。これが旧道の特徴ですよ」と教えてくれました。

 「中里会館」と記された看板がかかる集会所のような建物もありました。

 土壁の瓦葺土蔵もありました。

 やがて右手に現れたお寺は、「高野山真言宗 醫王寺」というお寺であり、その不動明王は「新田町指定重要文化財」になっていることを知りました。

 またこのお寺は、「北関東三十六不動尊霊場 第十番札所」でもあるようです。

 近くの街灯には「黄金身代り不動尊」とも記されていました。

 「小金井」の地名は、この「黄金」と関係があると思われてきました。

 あとで地図で確かめてみると、この道をやや進んで交差する道があり、そこを右折してしばらくのところに「小金井」(こがない)のバス停が記されていました。

 このあたりが「新田小金井町」(にったこがないちょう)の中心地区であったように判断されました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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