鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

『毛武游記図巻』第16図の庭の構造物

2013-12-19 05:49:05 | Weblog

 私はこの板屋根のある構造物(木製)は、高札場(こうさつば)ではないかと考えています。

 『江南町史 資料編5 民俗』によれば、押切村は比較的大きな村であって、「六給」といって、六人の領主の知行地であったという。

 そして高札場が、地内に六ヶ所あったとのこと。

 持田家はこの押切村の有力農民であり、名主を勤める家柄でした。

 この持田家の近くには、かつては持田一家で祀る稲荷神社(持田稲荷)があり、また持田家の裏手(北側)にはかつて天台宗の宝幢寺(ほうどうじ)がありました。

 しかし明治43年(1910年)の荒川の大洪水によって流出し、いずれも移転してしまいました。

 また下押切には、「蔵屋敷」と呼ばれるところがかつてあり、そこには河岸があって、米蔵が建ち並んでいたという。

 その「蔵屋敷」と呼ばれたあたりがどこかははっきりとはわかりませんが、押切村はかつて現在の荒川の方まで(つまり北方向に)突き出ていたという記述もあり、明治43年の大洪水の前までの押切村のようすと現在の押切のようすとはかなり異なっていた(荒川の流路も異なっていた)ということが十分に考えられます。

 下押切に河岸があったということは、下押切が荒川に突き出ていたあたりに広い砂洲のようなものがあって、そこに河岸があったのではないか。

 その河岸から南堤を上がったところに、「蔵屋敷」と呼ばれるような米蔵が並ぶところがあったとすると、それは、かつて天台宗宝幢寺があったあたり、つまり持田家かあるいはその周辺(北側一帯)ではなかったか、という推測が成り立ってきます。

 この河岸場からは、さまざまな物資が、組み立てられた筏(押切は荒川の筏流しの中継地であった)に載せられて、下流へと運ばれたらしい。

 『江南町史 資料編5 民俗』によれば、その荷物の上に、漬物用の石などをいくつか載せていったという。

 荒川の河原の石を売るのは、押切の権利のようだったといわれる、との記述もありました。

 筏の上に、米俵などさまざまな物資を載せて下流へと運び、その荷物の上に河原石を載せて、それを漬物石などとして売る、といったことも行われていたようです。

 持田家のある一帯を知行していたのは旗本の大道寺仁太郎(天保2年当時)。

 『江南町史 近世 資料編3』には、享和2年(1802年)9月(旧暦)に、押切村名主として「持田宇兵衛」なる人名が出てくるし、また天保6年(1835年)7月には、「名主宗右衛門」なる人名が出てきます。

 また安政3年(1856年)や万延元年(1860年)にも、「名主宗右衛門」が出て来ます。

 つまり、持田家は代々押切村の名主(旗本大道寺の知行地の)であったらしいことがわかってきます。

 崋山の持田家に残したお礼状にも、「おのがあつかる所乃村々さへ愁を訴ふ事たになしとそ」という記述があり、持田家があずかる村々で、愁いを訴えるような事(訴訟を構えるようなこと)さえ全くないようだ、という意味であり、持田家が名主であったことを伺わせる記述となっています。

 スケッチ(第16図)に戻ると、その板屋根のある構造物は、庭の南側の生垣に接したところにあり、その左側で生垣は途切れています。

 つまりここが出入りできる場所であるとすると、持田家に出入りできる生垣の切れ目を入ったところ(左手)に、この構造物は建っていることになります。

 よく見ると、板屋根の下には、横に長い板が架け渡されています。

 板屋根は、この長い板を風雨から守るためのもの。

 持田家が名主であったとすると、ここには簡単な高札のようなものがあった、つまりこの板屋根の構造物は「高札場」であったと考えられるのですが、はっきりと確証があるものではありません。

 崋山が画面の中に、この構造物をかなりしっかりと描いているということは、崋山がこの構造物に関心を持っていたあらわれだとは言えないでしょうか。

 

 終わり

 

〇参考文献

・『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)

・『江南町史 近世 資料編3』(江南町)

・『江南町史 資料編5 民俗』(江南町)

・『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿