鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その3

2013-12-28 05:16:41 | Weblog

 先ほどの通りに戻ったのが9:22。

 そこは交差点になっており、道は左右(東西)に延びる通りを突っ切って南へと延びています。

 その南東角に、瓦屋根とコンクリート壁のお堂があって、その中に大小2体の石地蔵らしい石仏が安置されていました。

 さらにそのお堂の左側には、「如意輪〇」と刻まれた石造物などが3つほど並んでおり、このお堂のある道の角ないし交差点が、古くからのものであることを示していました。

 そのお堂の前を通過して、道を南下していくと、左手に3階建ての真新しい病院の建物(北深谷病院)があり、しばらくして「備前渠」と記された小さな橋を渡りました。「備前渠」は「びぜんきょ」と読み、橋の名前は「江原橋」でした。「渠」といのは「溝」や「堀」のことであり、「備前用水」という意味だと思われる。

 その「備前渠」に架かる橋が「江原橋」。

 田んぼの中の道をしばらく進んで振り返ると、うっすらと雪をかぶった赤城山が大きく見えました。

 さらに南進して、国道17号線のバイパスに架かる歩道橋(蓮沼歩道橋)を渡ったのが9:36。

 その歩道橋の上からも、赤城山や浅間山、そして秩父山地を望むことができました。

 歩道橋を渡ってすぐに「明戸小学校入口」の標示を見掛けたので、途中で右折して田んぼの中の道を進むと、右手(つまり北側)に、敷地の南西角に立派な土蔵のある農家を見掛けました。

 大きな土蔵ですが、よく見ると瓦屋根の下あたりが一部はがれており、かなり年輪を経た土蔵のように思われました。

 その土蔵の南側には柿の木があり、その土蔵の北側には冬枯れた樹木が3本ばかりそびえ立っています。

 他の人家を見てみると、西側や北側に背の高い生垣や樹木の繁りがあり、西風や北風を意識した造りになっていることがわかります。

 また「カイドウ」「カイド」「ケイド」などと呼ばれる取り付け道が、通りから門まで畑の間を延びているような農家もありました。

 このあたりの人家も、その多くは新建材の新しい建物になっていますが、よく見るとかつての農家のたたずまいを残していることがわかります。

 「深谷市消防団 第7分団」の前に出たのが9:45。

 そこの前の通りを、左手に「JAふかや 明戸支店」、右手に「明戸生涯学習センター」や「明戸公民館」のある新しく立派な建物を見ながら、しばらく南へと進んだところ、通りの右手傍らに、「奉巡禮 月山 湯殿山 羽黒山 立山供養塔」と中央に文字が刻まれ、さらにその右側に「秩父 三十四番 坂東三十四番」、左側に「西国 三十三番 四国八十八箇所」と刻まれた石造物を見掛けました。

 いつ頃に建てられたものかはわかりませんでしたが、普通に考えると、これは、出羽三山・秩父・坂東・西国・四国(八十八ケ所)巡礼を成し遂げた記念として建てられた石造物であるということでしょう。

 出羽・秩父・坂東・西国・四国を巡礼するというのは、誰にでも出来るというものではなく、稀有のこととしてこの石造物が建てられたものと思われます。

 しかし江戸時代後半になると、農民の中でも裕福な者ともなると、このようなかなり広範囲にわたる巡礼の旅を何回かに分けて行っていることは、数々の史資料から見えてくることです。

 彼らの行動力は、当時、基本的には歩くことでしか移動できなかったことを考えると、おそるべきものがあったのです。

 このあたりの農民の中にも、そのようなおそるべき行動力(信仰をともなった物見遊山の旅を、重ねて行う行動力)と財力を持った農民がいたらしいことを示す石造物でした。

 さらに道を進むと、石地蔵や如意輪観音像を安置したお堂や「二十二夜」塔を納めた瓦屋根の構造物や、六地蔵が並んだやはり瓦屋根のある構造物などがあるところがあり、このあたりの人々の信仰心を伺わせるものでした。

 そのように石仏や石造物が次々と現れるということは、やはりこの道が古くからの道であるらしいことを示しているように思われました。

 「たばこ増田屋」という商店が角にある通りへと出たのが9:52。

 これが県道127号線であるだろうと判断して、そこの角で右折し、その通りを西方向へと進んで行くことにしました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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