鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その4

2013-12-29 05:06:38 | Weblog

 「柳オートサービス」の前、交差点に面するように大きな記念碑があり、それには「県営圃場整備事業竣工記念碑」とありました。

 こういう記念碑は、あちこちで時々見掛けています。

 その碑文によれば、本地区は深谷市東北部の利根川沿岸の沖積平野に位置する、肥沃な農業地帯であり、地区内は備前渠用水の支線である鷲宮(高畑)新井(上敷免)堰の用水路による灌漑区域であるけれども、末端部に位置し、恒常的に甚だしい用水不足をきたしていたという。

 また水路は、用排兼用の土水路で曲折も多く、局部的に排水不良がみられ、しかも耕作道路は狭小で曲折しているために農業機械の搬入、生産物の集出荷等に苦慮していたとのこと。

 そこでこのような状況を打開するために、圃場の整備事業を実施し、併せて用排水施設と道路網の整備を行い、農地の集団化を可能にするとともに近代的な営農方式の導入により、農村の近代化と生産性向上を図る必要が生じ、そのために長年の懸案であった未整理地帯の約106ヘクタールの圃場整理事業に着手したという。

 着手以来、平成6年度まで9年の歳月と20億円余の巨額を要した、といったことも記されていました。

 「明戸南部土地改良区」とあるからには、明戸地区の南部にあたる地域が、灌漑用水の不足やむかしながらの土地区画や道路状況により生産性が上がらなかっために、圃場の大々的な整備事業を行うに至った事情が、その記念碑には刻まれていました。

 このような圃場整備事業の記念碑は、三ヶ尻の宮島あたりにもあり、かつての田んぼの風景が圃場整備事業により大きく変貌したことを示していました。

 宮島から観音山(三ヶ尻観音山)を眺めた田園風景を崋山はスケッチしていますが(「自宮島望狭山」)、崋山と梧庵らしき二人連れが三ヶ尻に向かって歩く田んぼ道も、屈折した畦道も、現在の宮島あたりの田園風景からは失われています。

 それと同様に、前小屋村や明戸(あけと)村を通過して南進した崋山と梧庵が見た田園風景は、大々的な圃場整備事業によって近代的なそれへと変貌しています。

 北に赤城山、進行方向やや右手はるか向こうに浅間山を見ながら県道を進み、「↑深谷市街 127 ←熊谷17 →本庄17」と記された道路標示を見たのが10:08。

 この道は確かに「県道127」であり、この道を進めば深谷市街に至ることを、ここで確認することができました。

 そこから間もなく、「農業構造改善竣工記念」と刻まれた黒い石碑を見掛けました。

 その碑文には次のようなことが記されていました。

 明戸土地改良区は、利根川右岸の沖積層地帯にあり、平坦にして肥沃な農村地帯である深谷市大字明戸、大字新井、大字原郷を地域とし、用水は利根川水系の備前渠(びぜんきょ)用水を主とし、一部福川から取水している。

 明治中期までは大部分が畑作地帯であり、水田は一部の低湿地にわずかにあったばかり。

 基幹作物としては、陸稲・大小麦・大豆・桑等であり、養蚕は貴重な換金作目であったという。

 また当地方は、昔から地元の優良なる原土を原料とした瓦製造が盛んであり、さらに明治22年(1889年)〔正しくは明治20年(1887年)-鮎川注〕、大字上敷免(じょうしきめん)に日本煉瓦製造株式会社が設立されたことにより、その用土が当地区内より提供され、明治末期から大正年代にかけて急速に畑地の水田化が進み、稲作を中心とする営農形態になっていったとのこと。

 しかし畑地のまま無計画に用土を取り去り、開田をしたために田畑が混在し、道路は従前のままで曲折して高く、用排水路は未整備でようやく水田の形態をなしているに過ぎなかったため、水不足は常習化し、また一旦豪雨ともなれば一面の泥沼と化したという。

 特に明治43年(1910年)8月の大洪水は、大きな被害をもたらしました。

 そのような経緯から、大規模な農業構造改善事業が進められた、といったことがその記念碑には記されていました。

 先の明戸南地区の圃場整備事業竣工記念碑の碑文の内容と異なる点は、もともとは養蚕関係の桑畑などが広がっていた畑作地帯であったところが、日本煉瓦製造株式会社ができたことにより、その原料としての土が提供されることになったことで畑地の水田化が進み、その水田化が無計画に進んだことによって田畑が混在し、道路も用排水路も未整備であったために、水不足や大洪水が発生すると大きな被害を受けることになった、という歴史的事情の指摘でした。

 崋山がこのあたりを通過した時は、桑畑などの畑地が一面に広がり、一部の低湿地に田んぼが広がっていた程度であったのかも知れない。

 しかし明治20年(1887年)、上敷免に日本煉瓦製造株式会社が出来たことにより、このあたりの田園風景は大きく変貌していくことになったのです。このあたりで取れる土は、よほど煉瓦製造に適したものであったのでしょう。このあたりは江戸時代から瓦生産が盛んな地域でもあったようです。

 それからまもなく、「明戸(東)」交差点を通過し、「諏訪神社」前を通り過ぎて、福川に架かる「権現堂橋」を渡ったのが10:24。

 その福川を渡った先に見えた樹木の大きな繁りは、「楡山(にれやま)神社」という由緒ある神社の「鎮守の杜」でした。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿