鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その13

2013-12-15 05:22:14 | Weblog

 思いがけぬ出合いであった、「中溝・深町遺跡」という古墳時代前期の遺跡を保存するために造られた史跡公園を出発して、西隣の「CHIYODA」とある工場との間の道を南下したのが9:35。

 すぐに道はガードレールにぶつかったため、その後道を右折したり左折したり、また右折や左折などを繰り返しながら、「新田東部工業団地」をようやく抜けて、「洋麺亭」というレストラン(パスタ専門店)のあたりで東西に走る幅広の道路に出たのが9:45でした。

 もし「小金井」の「養鶏孵化場」のあった四つ角から、田んぼの中の一本道がこのあたりまで続いていたとしても、農地の大規模な区画整理や大規模な工業団地(新田東部工業団地)の造成によって、その道はほとんど跡形もなく消え去ってしまっているように思われました。

 出た幅広の通りは県道2号線(前橋館林線・「古河街道」)であり、もちろん前橋と館林を結ぶ幹線道路。東へ進めば太田市街であり、西へ進めば伊勢崎市街を経て前橋市街へと至ります。

 私はこのあたりで崋山を含む3人は、右折して伊勢崎方面(西方向)へ進んだものと考えました。

 もう少し西側に、「新田市野井町」から「新田村田町」へと「桐生新田木崎線」(県道332号線)が南北に走っていますが、ここを通過したとしたならば、崋山はその右手に見えたはずの本家本元の「生品神社」の、鬱蒼とした杜(もり)の繁り〔鎮守の森〕のことを記さなかったはずはない。

 やはり「東雲寺」「医王寺」「小金井」を結ぶ道をたどって、「古河街道」へ出たものと考えたい。

 「古河街道」へと出たところで右折して「古河街道」を西方向へと進み、「下村田」へと入ったのです。

 右手に「シナネン株式会社 群馬営業所」の高いブロック塀を見て、県道2号線をほぼ真西に向かって進みます。

 電柱には「新田小金井町」との町名標示があり、このあたりがまだ「新田小金井町」であることがわかります。

 「広域バス」のバス停もあり、それには「太田市営バス『新田線』 般若」と記されていました。

 「般若」(はんにゃ)というバス停の名前です。

 まもなく「←反町薬師 反町館跡 蛇川サイクリングロード→」と記された木製の案内標示が現れました(9:54)。

 そして「↑2 前橋 伊勢崎 →322 藪塚」と記された道路標示が現れたのが9:57。

 県道332と県道2の合流点になります。

 その合流点に至ったのが9:58で、その交差点の信号には「太田市 新田村田町」と記されていました。

 崋山が記す「下村田」「中村田」「上村田」というのがどのあたりを指すのかはよくわかりませんが、古河街道と合流したあたりが「下村田」、そして「新田村田町」の交差点あたりが「中村田」、そしてその西側にあったのが「上村田」ではなかったかと私は推測しています。

 地図で見てみると、県道332を生品小・中方面へ入っていくと「村田」というバス停があり、その西側に「宝蔵寺」というお寺があります。

 「新田村田町」の交差点があるあたりが「村田」の中心部である「中村田」であったと推測するのは、そのことにもよります。

 私の推測では、崋山を含む3人は、藪塚→山の神→小金井村→下村田という道筋をたどり、「古河街道」(県道2号線・「前橋館林線)に出たところで、義兵衛は道案内を終え、新品の下駄をぶら下げてもと来た道を戻って行ったものと私は考えます。

 そう考えるならば、義兵衛が「下駄作る家にこしかけてたのし」み、おそらく新品の下駄を購入した商家(履物屋ないし下駄屋)は、「古河街道」に面していたことになります。

 そこからさらに歩くことしばらくして、「反町薬師入口」バス停が現れました(10:00)。

 右手には「亀桝屋酒店」があり、崋山が酒造家が12軒ばかりある村だ、と記した面影をわずかばかり残しています。

 「反町薬師入口」交差点(信号)が現れたのが10:02。

 この左折して南下していく道を、すでに私は歩いています。

 そのすでに歩いている道を、木崎方面へと歩いて行くことにしました。

 この道も県道332号線(桐生新田木崎線)になります。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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