鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その1

2013-12-23 06:36:35 | Weblog
天保2年(1831年)の11月7日(旧暦)、利根川を前小屋の渡しで越えた崋山は、深谷宿に泊まり、翌日か翌々日、中山道を熊谷宿方面へと向かい、途中で右折して秩父街道へと入り、大里郡大麻生村居住の名主、古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)宅を訪ねます。『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』の嶋野義智さんの「武人と文人とに生きた崋山」によれば、崋山に大麻生村の古沢喜兵衛(槐市)への紹介状を書いてくれたのは伊丹渓斎でした。伊丹渓斎とは、10月29日(旧暦)の前小屋天神書画会の夜、崋山・岡田東塢(とうう)・金井烏洲(うじゅう)らが泊まった武蔵国榛沢(はんざわ)郡高島村の伊丹家の、当主新左衛門〔水郷・名主〕の弟で俳人であった唯右衛門(1805~1870)のこと。伊丹渓斎は、当時江戸に居住していた桜井梅室(1769~1852・加賀藩の研刀御用掛で俳人)の門人でした。おそらくこの嶋野さんの説はその通りであったと思われる。岡田東塢は、「前小屋の書画会に出掛けたなら、深谷や三ヶ尻に近いから、きっと三ヶ尻調査のつてを見付けることができるはず」と、崋山を前小屋天神の書画会に誘ったのですが、その前小屋村で崋山や東塢を待ち受けていたのは、上野国佐位郡島村の金井烏洲(東塢の友人であり、崋山の知人でもあった)でした。金井烏洲の父である文八郎(万戸)は俳人でもあり、「上毛俳壇は、ほとんど万戸の手中にあったといってよい」と言われるほどの実力者でした。また谷文晁とも親しく、文晁は何度か島村の金井家を訪れたことがありました。烏洲はその万戸の次男。この近辺の俳壇事情についても詳しかったものと思われる。烏洲は、10月29日の夜、自ら案内して高島村の伊丹家へ崋山や東塢を連れて行き、崋山に新左衛門の弟である唯右衛門(溪斎)を引き合わせたものと思われる。伊丹渓斎は、崋山に大麻生村の名主で俳人であった古沢喜兵衛(槐市)の名を挙げ、その槐市への紹介状を崋山に書き与えるとともに、もしかしたらその槐市の俳諧の師匠であった三ヶ尻村の名主黒田平蔵(幽鳥)の名を挙げたかも知れない。溪斎は崋山に、「古沢槐市のもとに行ったら、三ヶ尻村の黒田幽鳥を紹介してくれるはずですよ」とアドバイスしたかも知れない。今回の取材旅行は、前小屋から大麻生まで、崋山が歩いた道をたどってみることにしました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む