鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その14

2013-12-16 05:35:13 | Weblog
案内人義兵衛が、下村田で役目を終えたということは、あとの行程はもう間違えることはないだろうという判断と、桐生へと戻る時間とが併せ考えられていたものと私は考えます。おそらく義兵衛は、「この街道を西へと進んで、中村田のあたりで左へ折れる道があるから、その道を南へと進んで行けば尾島に至り、そこからは前小屋の渡し(利根川)はもうすぐです」とでも言って、崋山らと別れたのでしょう。中村田からともかく南へ南へとひたすら歩いて行けば利根川にぶつかるはず、そう義兵衛は崋山に教えたのです。彼が崋山に教えた道は尾島経由で「前小屋の渡し」に至る道であり、「二ツ小屋の渡し」へ至る道ではありません。「尾島から右手の二ツ小屋の方向ではなく、左手の前小屋の方への道を行くんですよ」と、義兵衛は念押ししたかも知れない。ということは義兵衛は、桐生も含めて利根川流域あたり(尾島や前小屋あたりも含めて)の地理についても詳しい人物であったことになる。ということから推測すると、この義兵衛なる人物は、絹買継商を積極的に展開する岩本茂兵衛家に勤める小者(使用人)の一人であり、絹売買のために桐生周辺を歩き回っていた者ではないか、という考えが出て来ます。その使用人で信頼できる人物を、茂登は選んで、崋山と梧庵に道案内人(「導者」)として付けたのはないか。と考えるならば、この義兵衛はそれほど若くはなく、また老人でもなく、四十前後の男ではなかったか。義兵衛が「下村田」の下駄屋で選んだ新品の下駄は、妻や娘(あるいは息子)のためのものであったのかも知れません。 . . . 本文を読む