鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その6

2013-12-07 06:46:15 | Weblog
崋山はたどった路程がわかるように、赤岩橋を渡ってから藪塚あたりまでの地名や山の名前などを記しています。「新田宿、芦中村、阿左美、生品の森」「広沢山、吉沢山、金山、ヌマ、中嶌」がそれ。「新田宿」(しんでんじゅく)は、赤岩橋で渡良瀬川を渡ったところであり、渡良瀬川の渡し場の近くにある街道筋の宿場であったものと思われる。「芦中村」は「新田宿」と阿左美(あざみ)沼との間にあり、現在は「足仲」と表記している。「阿左美」は「阿左美村」であり、現在はみどり市笠懸町阿左美。「阿左美沼」や「桐生競艇場」がある。「阿左美沼」は「旧沼」と「新沼」があって、「新沼」は昭和14年(1939年)に灌漑用の溜池として造られたもの(桐生競艇場になっています)。「生品の森」は阿左美にある生品神社の「鎮守の森」のこと。「広沢山、吉沢山、金山」は、阿左美から藪塚方面へと歩いて行って左手に見えてくる山であって、阿左美の「生品の森」の左手が「広沢山」、その山稜の続きで南側が「吉沢山」。「金山」は、太田方面にかなり離れて見える独立峰であり、かつて金山城があった山。では「ヌマ」や「中嶌」はどこか。『渡辺崋山集 第2巻』の「後注」には、「ヌマ」は「上野国山田郡天沼新田(桐生市相生町)」とあり、「頭注」には、「中嶌」は「高島の誤り。武蔵国榛沢郡高島村(深谷市高島)」とありますが、これは無理がある。「天沼新田」は現在の桐生市相生町5丁目あたりであり、阿左美沼よりもずっと北側。崋山がここを通過したと思い込んだために、私は道を間違えてしまったことがあります。「ヌマ」はやはり「阿左美沼」のことと考えるべきです。「足仲村」を過ぎると「阿左美村」であり、そこには昔からの大きな「ヌマ」があったのです。その遊歩道を、桜が満開の時に私は歩いたことがあります。では「中嶌」はどこか。原文の文字を見ていないので断定はできませんが、これは「中原」の間違いではないか。いきなり「高島」(榛沢郡高島村)がここに出てくるのはおかしい。「中原」は、「牛の塔」の前の道を南下していくと出て来る地名であり、道筋には「秋葉神社」(由来碑は「中原ふるさと研究会建之」)や「藪塚本町中原共同集荷所」がありました。この「中原」を過ぎていくと、「東武桐生線」の「藪塚駅」の近くに至るのですが、そこから崋山一行は田んぼの中を、「山の神」に向かって進んで行きました。 . . . 本文を読む