鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その9

2013-12-11 05:06:42 | Weblog

 「陸鷲修練之地」と刻まれた石碑に出合ったのが8:10。

 まわりにはそれを伺わせるものは何もありませんでした。あたりは大きな工場などが密集しているばかり。

 後で帰宅してから地図を見てみると、県道332号線(桐生 新田木崎線)の西側に、「新田市野倉町(にったいちのくらちょう)」というのがあり、その町の区画はその周囲とは異なって、ほぼ45度、東西南北に傾いています。

 その四角の一辺はおよそ1.5km。

 ここがおそらく熊谷陸軍飛行学校新田(にった)分教場があったところであると判断されました。

 熊谷陸軍飛行学校は熊谷市三ヶ尻(みかじり)にあり、現在は航空自衛隊熊谷基地になっています。

 その分教場の一つが新田分教場であり、ここは通称、「新田教育隊」とも「鬼の新田教育隊」とも呼ばれていたようです。

 これもあとで調べたことですが、旧陸軍が戦闘機のパイロットを養成するための練習場として造った飛行場の一つであり、旧陸軍は「少年飛行兵」を大々的に募集したらしい。

 石碑の裏面には、「元少飛 柳文夫書」とありました。

 「柳文夫」という方は、ここ新田分教場で「少年飛行兵」として厳しい訓練を受けた人であって、誰がこの碑を建てた人かはわかりませんが、もしこの「柳文夫」さんがこの石碑を建てた中心人物であったとするならば、「柳文夫」さんは、この場所がそういう場所であったことを示すものとして、そしてまたそれを後世の人々に永遠に伝えるものとして、これを建てたものと考えることができます。

 「平成七年八月」に、「終戦五十周年記念」として建てられたものであるから、当時「柳文夫」さんは70余歳であったと考えられる。

 それから18年経っているから、「柳文夫」さんがご存命であるならば、現在88歳余ということになる。

 ここで、少年飛行兵として厳しい訓練を受けた「柳文夫」さんが、その後、どういう戦歴を経、そして戦後どういう人生をたどったのか。また「柳文夫」さんを取り巻いていたはずの多くの少年飛行兵たちが、その後、どういう人生をたどっていったのか、そういったことをもっと知りたいという気持ちを覚えました。

 そこから4分ほど道を南進していくと、右手の電柱の傍らに、「←県指定史跡 二ツ山古墳 500m」と記されている案内柱が立っているのを見つけました。

 その表示の下には、「←国指定史跡 生品神社 4.3km」とも表示がなされています。

 この「生品神社」は、今までの取材先各地で見た「生品神社」の本家本元であり、ここを私は以前に訪ねたことがあります。

 「二ツ山古墳」の矢印の方向(つまり東方向)を見てみると、舗装道路がまっすぐに東方向に向かって延びており、その通りの南縁に沿って赤松の松並木が続いています。

 その松並木の下は遊歩道になっているようにも思われました。

 そしてその舗装道路の延びていくずっと先の左側に丘陵らしきものが見え、それが「二ツ山」の一つであると思われました。またよく見てみると、松林越しに右手に、左のよりはやや小さめの丘陵も見え、その二つを合わせて「二ツ山古墳」といわれるようになったものと推測されました。

 田園地帯において、松並木がこのように長く直線的に延びているところは、今まで歩いてきて見掛けたことがなく、崋山の「それよりして(山の神を過ぎてから)大原あり。松並多(おおく)たち、林樾(りんえつ)径(みち)を覆(おお)い」という文章を想起させるものでした。

 興味にかられて、その松並木のある道へと入ってみることにしました(8:15)。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

・インターネットによる「熊谷陸軍飛行学校」「新田分教場」「陸鷲」の検索



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