「江原橋」と記されている橋の上に立ったのが9:12。
そこから利根川方面を眺めると、左手前方には大きな施設の建物があり、その建物の左手から土手へと上がるコンクリートの階段があるのが見えました。
その施設の方へと道を入って行くと、その施設は特別養護老人ホームでした。
その玄関前を通過し、土手へと上がる階段に取りつくと、その右手に「あかがねばし」と刻まれた石柱と、「永受嘉福」と刻まれた大きな石碑が並んでいました。
かつて「あかがねばし」と呼ばれた橋が、このあたりに架かっていたことを示すものであるらしいのですが、その由来のようなものが記された案内板のようなものはありません。
「橋」があったということは、かつてここに道があったということであるでしょう。
2段になったコンクリートの階段を上がると、土手の上からは一気に視界が広がりました。
まず目に付いたのは「管理標示板」のある白い管理施設。
標示板によれば、それは「江原樋管」というもの。「工作物の位置」は「埼玉県深谷市江原」となっています。
その北側に左右に流れるのは利根川ではなく小山川。河川敷はかなりの幅があり、河川敷には畑が広がっています。
河川敷の向こうの土手の上には人家が横に並んでいますが、あれが深谷市前小屋であり、私はそこを歩いたことがあります。いわゆる「南前小屋」と呼ばれる地区です。
その「南前小屋」の人家の並びの向こうに見える、うっすらと雪をかぶった大きな山塊が赤城山。
「南前小屋」の人家の並びの向こうには、利根川の流れがあるのですが、ここからは利根川の川面は見えません。
小山川の上流を眺めてみると小山川橋が見え、その橋の上の方に雪を頂いた白い浅間山が見える。その左手ののこぎりの歯のような独特の形をした山容は妙義山。
そしてその左手に続いていく山々が秩父連山(秩父山地)。
「江原樋管」の左手向こうを眺めると、上州の山々や日光の連山を見ることができる。
平地よりやや高くなった土手の上ですが、まわりに視界を遮るものはなく、まわりの山々を初めとして一望のもとに見晴るかすことができます。
この風景を見て、私は崋山が描いた「前小屋渡」のスケッチを想起しました。
崋山は「前小屋の渡し」で利根川を渡り、上陸したところから北側を振り返ってその眺望をスケッチしました。
利根川の対岸には荷舟が碇泊し、田んぼの向こうには尾島の集落が左右に延びています。
その尾島の集落の向こうに見えるのが赤城山の堂々たる山塊。
崋山は次のように記しています。
「見かへれば日光足尾赤城浅間の山々手にとるばかり川上にうかび出でし景いはんかたなし」
上陸したところから振り返ってあたりを見渡せば、赤城山・足尾や日光の山々、そして浅間などの山々が手にとるようにくっきりと見えたというのです。
ここから見える赤城山は、小山川の河川敷の向こうに左右に並ぶ前小屋地区の人家の上に見える赤城山ですが、景観としては、小山川の川幅自体は狭いものの、崋山の描いたスケッチによく似た風景。
赤城山やその他の山々の山容は、崋山の時と変わることはありません。
かつての利根川の流れは、現在の利根川の流れよりももっと北側にあり(北側へと湾曲していた)、天保2年(1831年)11月7日に「前小屋の渡し」で利根川を越えた崋山と高木梧庵は、前小屋村を通過して南へと進み、このあたりのどこかを通過していったはずですが、利根川の改修工事等によって、崋山が歩いた道は、現在の利根川の流れとなり、またその利根川や小山川の河川敷となって、失われてしまっています。
書画会が開催された前小屋天神社のあった前小屋村自体が、利根川の改修工事等によって南北に分断されてしまったのです。
金井烏洲が住んでいた島村も、そして伊丹新左衛門家があった高島村も、そしてまた前小屋天神社があった前小屋村も、その様相を、崋山が前小屋村や高島村を訪れた頃とは、大きく変貌させてしまっているということです。
「江原樋管」の施設のあるその小山川の南側土手(堤防)からコンクリートの階段を下り、左手に特別養護老人ホームの建物を見ながら、先ほどの通りへと戻ったのが9:22でした。
続く
〇参考文献
・『客坐録 天保二年八月』
・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)
・『崋山と歩く桐生と周辺の旅』(渡辺崋山と歩く会 代表 岡田幸夫)
・『渡辺崋山と弟子たち』(田原市博物館)
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