鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その6

2013-12-31 05:05:29 | Weblog

 「稲荷神社(稲荷町)」と記された案内板があり、それによれば、康正(こうしょう)年間(1455~1456)に深谷に城を構えた上杉房憲(ふさのり)が、城を鎮護するために一仏三社を勧請(かんじょう)したと伝えられているが、その「三社」が「末広稲荷」・「永明稲荷」・「智形明神」であり、このうち「末広稲荷」が現在の「稲荷神社」のことであるとのこと。

 「末広稲荷」は、深谷城の鬼門守護のために勧請されたもの。

  城下の発展に伴い「稲荷町の鎮守」として地域の人々から篤く信仰されてきたという。

  「深谷上杉顕彰会」とあり、この案内板を立てたのが「深谷上杉顕彰会」であることがわかります。

  石鳥居の向こうにある社殿自体はそれほど大きなものではありませんが、境内の左手にある建物は、どういう建物かはよくわかりませんが、瓦葺の古風で立派な木造建築。

  境内には「深谷市保存樹木」があり、それの樹種は「ケヤキ(ニレ科)」でした。

  「ケヤキ」は「ニレ科」とあることから、先ほど立ち寄った原郷の「楡山神社」のことを想起しました。

  境内を出て通りをさらに西方向へ進むと、しばらくしてまっすぐに流れる川に架かる橋を渡りますが、その川の名前が「唐沢川」(からさわがわ)。

  さらに進んで、「教育庁舎・市立図書館・深谷生涯学習センター →」と記された案内標示を見たところで、右へと折れる道を進んでいったところが、城跡らしい石垣がある通りへとぶつかりました。

  その城跡らしきものが「深谷城跡」であることを、その入口の案内板から知りました。

  案内板によれば、深谷城は唐沢川・福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城(ひらじろ)であったという。

  造られたのは室町時代中期の康正(こうしょう)2年(1456年)であり、深谷上杉房憲(ふさのり)が古河公方(こがくぼう)の侵攻に備えて築城したものと伝えられているとのこと。

 土塁や深い濠(ほり)を巡らした平城で、その形から「木瓜城」(ぼけじょう)とも呼ばれたという。

 しかし、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による関東攻めによって開城。

 それまで、憲清(のりきよ)・憲賢(のりかた)・憲盛(のりもり)・氏憲(うじのり)と134年間にわたって、戦国時代の北武蔵における上杉方の支城であったが、徳川家康の関東入国後は徳川一族や譜代家臣の居城となり、そして寛永11年(1634年)に廃城になった、といったことが記されていました。

 現在、その跡をとどめているところは、深谷上杉氏の祈願社であった富士浅間(ふじせんげん)神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路だけであるらしい。

 「智形神社」とは、おそらく先ほどの「稲荷神社」の案内板にあった「三社」の一つ、「城内守護の社(やしろ)」としての「智形明神」のことであるでしょう。

  この説明文により、通りに面してあった石垣はかつての深谷城のものではなく、新しく造られたものであり、かつての深谷城のおもかげを残しているのは富士浅間神社の周辺わずかばかりであるということを知ることができました。

  ここで出てくる深谷城を築いた上杉房憲(ふさのり)とは、先ほどの「稲荷神社」の案内板に出てきたように、城を鎮護するために「一仏三社」を勧請した深谷上杉氏の祖と考えられる人物。

  案内板には『武蔵志』所載の「深谷古城図」も掲載されていました。

  それには、城の「大手」南側に、中山道に沿って商家が建ち並ぶ深谷宿が描かれていました。

  かつての深谷城の城内守護の社であったという「智形神社」が、いつの頃からか、「富士浅間(ふじせんげん)神社」という富士山信仰をうかがわせる神社名となっていることを知り、俄然興味・関心を覚えて、城跡北東部にあるというその「富士浅間神社」に足を向けることにしました。

 

  続く

 

〇参考文献

・『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)

・『夢魂の人 高野長英私論』千田捷熙(ぎょうせい)



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