鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その7

2013-12-08 05:19:17 | Weblog
崋山の『客坐録』(かくざろく)には、このルート関係の何らかの記述はあるのだろうか。順に列挙してみたい。①「木崎大通寺ノ鐘 心越ノ銘」②「廿九日 前小屋天神 長崎末次忠助度学ニ好 佐々木雅逸 蘭学ヲナスイシ也 高島村伊丹新左衛門 号水郷 弟唯右衛門 号溪斎」③「大原 椎名半治 詩人 秋村 京屋 大原といふ桐生より弐里詩佛弟子 雲山ニも学」④「烏州 島村といふ處也 桐生より五里 此人ハ江戸にて逢ふたる人也 質屋といふ」 私が見た限りでは以上がその記述であり、道中のメモらしきものはほとんどない。①の木崎宿にある大通寺の心越の銘のある鐘を、崋山が実際見に行ったかどうかはわからない。②に出てくる「佐々木雅逸」は「佐々木雄逸」の間違いであり、『毛武游記』では正しく「佐々木雄逸」となっています。高島村の伊丹新左衛門家で蘭学を教えていた蘭医(仙台出身)であり、長崎に留学をしたことがあるようだ。伊丹新左衛門(水郷)も蘭学を好み医者をしていた人。その弟が唯右衛門(溪斎)で俳諧を嗜んでいました。③崋山は「牛の塔」を過ぎてから中原を通っていますが、その西側にある村が大原村でした。前小屋天神へと赴く際に、崋山はこの大原村を通ってはおらず、こういう人がいるという情報をメモしただけなのかも知れない。④「烏州」とは「金井烏洲(かないうじゅう)」のこと。前小屋村で岡田東塢(とうう)とともに崋山を待ち受け、その夜、近くの高島村の伊丹新左衛門家に崋山を案内した人。この記述から、崋山は江戸で金井烏洲で会ったことがあり、また烏洲は「質屋」を営んでいたらしいこともわかります。烏洲とはすでに江戸で面識があったということは、この『客坐録』で知りうることです。おそらく谷文晁の画塾、下谷二丁町(現在の台東区一・二丁目あたり)にあった「写山楼」においてではなかったか。しかし崋山は島村の金井烏洲宅には足を運んではいません。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その6

2013-12-07 06:46:15 | Weblog
崋山はたどった路程がわかるように、赤岩橋を渡ってから藪塚あたりまでの地名や山の名前などを記しています。「新田宿、芦中村、阿左美、生品の森」「広沢山、吉沢山、金山、ヌマ、中嶌」がそれ。「新田宿」(しんでんじゅく)は、赤岩橋で渡良瀬川を渡ったところであり、渡良瀬川の渡し場の近くにある街道筋の宿場であったものと思われる。「芦中村」は「新田宿」と阿左美(あざみ)沼との間にあり、現在は「足仲」と表記している。「阿左美」は「阿左美村」であり、現在はみどり市笠懸町阿左美。「阿左美沼」や「桐生競艇場」がある。「阿左美沼」は「旧沼」と「新沼」があって、「新沼」は昭和14年(1939年)に灌漑用の溜池として造られたもの(桐生競艇場になっています)。「生品の森」は阿左美にある生品神社の「鎮守の森」のこと。「広沢山、吉沢山、金山」は、阿左美から藪塚方面へと歩いて行って左手に見えてくる山であって、阿左美の「生品の森」の左手が「広沢山」、その山稜の続きで南側が「吉沢山」。「金山」は、太田方面にかなり離れて見える独立峰であり、かつて金山城があった山。では「ヌマ」や「中嶌」はどこか。『渡辺崋山集 第2巻』の「後注」には、「ヌマ」は「上野国山田郡天沼新田(桐生市相生町)」とあり、「頭注」には、「中嶌」は「高島の誤り。武蔵国榛沢郡高島村(深谷市高島)」とありますが、これは無理がある。「天沼新田」は現在の桐生市相生町5丁目あたりであり、阿左美沼よりもずっと北側。崋山がここを通過したと思い込んだために、私は道を間違えてしまったことがあります。「ヌマ」はやはり「阿左美沼」のことと考えるべきです。「足仲村」を過ぎると「阿左美村」であり、そこには昔からの大きな「ヌマ」があったのです。その遊歩道を、桜が満開の時に私は歩いたことがあります。では「中嶌」はどこか。原文の文字を見ていないので断定はできませんが、これは「中原」の間違いではないか。いきなり「高島」(榛沢郡高島村)がここに出てくるのはおかしい。「中原」は、「牛の塔」の前の道を南下していくと出て来る地名であり、道筋には「秋葉神社」(由来碑は「中原ふるさと研究会建之」)や「藪塚本町中原共同集荷所」がありました。この「中原」を過ぎていくと、「東武桐生線」の「藪塚駅」の近くに至るのですが、そこから崋山一行は田んぼの中を、「山の神」に向かって進んで行きました。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その5

2013-12-06 05:26:02 | Weblog
崋山が「牛の塔」のいわれについて知っていたかどうかは、記述がないのでわからない。しかし崋山のことだから、案内人である義兵衛に尋ねたり、土地の人に聞いたりして、そのあらましについては知った可能性はある。彼は興味関心を持ったものについては、まるでそれが習性であるかのように記録したりスケッチしたりするからです。「生品の森」もそうだし、この「牛の塔」もそう。風景もそうだし人物もそう。農民の使う農機具もそうだし、収集家から見せてもらった絵画などについてもそう。崋山が見た「生品の森」は、それはかなり規模は小さくなっているものの現在も「鎮守の森」として大切にされて在り、「牛の塔」も「町指定文化財」として大切に保存されて、現在もそれを見ることができます。崋山がスケッチしたものを今も見ることができるというのは、私にとって、とてもうれしいことです。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その4

2013-12-05 05:28:33 | Weblog
崋山が阿左美から藪塚への道を歩いた時、進行方向左手に見えてきた山は、荒神山であり、そして天王山であったものと思われる。荒神山の西麓に阿左美生品神社があり(崋山はその鎮守の森を描いています)、天王山の西側に藪塚があります。藪塚から道を南下していくと、左手に見えた山は遠ざかり、やがて遠く東南方向に見えてくる山は、太田にある金山になる。崋山は利根川を渡って太田宿経由で桐生へと向かう際に、この金山の東麓を通っているし、また天王山や荒神山、そして茶臼山などのある山地の東側を歩いているから、今度はそれらの山地の西側を通っているという意識があったでしょう。崋山はその山地の北側を「広沢山」、南側を「吉沢山」、そしてやや離れた太田にある山を「金山」と記しています。歩いている途次、道案内をしてくれている義兵衛からそれらの山の名前を聞いたのだろうか。それとも土地の人に聞いたのだろうか。荒神山の西側に広がる生品神社(阿左美生品神社)の「鎮守の森」を中心とした「生品の森」を過ぎると田んぼが広がり、その田間を歩いて行くと田んぼの中に「牛の塔」と呼ばれる石造物があり、崋山はそこで休憩かたがた「牛の塔」をスケッチしました。藪塚というあたりですが、このあたりは田んぼが見渡す限り広がり、その中の道を崋山たち3人は進んでいきました。藪が繁って木陰になっているようなところを通過して、崋山たちは「山の神」と呼ばれている地点へと至っています。崋山の「生品森」の絵を見ると、鎮守の森の背後(北側)の左側に、桐生市街の北側に連なる吾妻山などを含めた山々が描かれていますが、実際に現在の道筋を歩いてみると、桐生北側に連なる山々は容易に見えてきません。というのは道路沿い密集する家並みが、北側の視界を遮っているからなのですが、かつては道沿いに建つ人家はいたって少なく、もっと視界が開け、北側の山稜はもっとよく見えたものと思われます。この絵の右側に描かれた丸みを帯びた山稜は荒神山であり、崋山が「広沢山」と記している山の一部であると私は推定しています。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その3

2013-12-04 05:38:11 | Weblog
崋山が桐生から前小屋村まで赴いた道筋は、現在の道路ではどの路線に重なっているかというと、阿左美(あざみ)から藪塚(やぶづか)までは県道78号線(太田大間々線)、藪塚から新田木崎(にったきざき)までは県道332号線(桐生新田木崎線)、新田木崎から尾島までは県道311号線(新田上江田尾島線)、そして尾島から前小屋村までは国道354号線と県道276号線(新堀尾島線)になります。現在の太田市堀口町あたりで利根川を「前小屋の渡し」で越え、前小屋村に入っていますが、この前小屋村は現在の太田市前小屋町(まえごやちょう)であり、深谷市前小屋(まえごや)ではありません。深谷市前小屋は「南前小屋」、太田市の前小屋町は「北前小屋」とも呼ばれていますが、崋山の訪れた天神社は、現在の太田市前小屋町にありました。しかし大規模な堤防工事などにより、利根川の流路は崋山が「前小屋の渡し」を越えた頃のそれとは大きく変わり、前小屋の天神社の位置もそれがもとあった場所とは変わり、その天神社の建物も失われてしまいました。おそらく当時の利根川の流れは、現在の太田市堀口町を流れる早川に重なっており、そこに架かる不動橋のあたりが「前小屋の渡し」があったところであると私は推定しています。つまり崋山の頃の利根川は、前小屋村のあたりで大きく北側に弯曲し、利根川を「前小屋の渡し」で渡った向こう側、つまり利根川の南側にあったということです。現在の県道276号線の「不動橋」あたりまでが、利根川を渡るまでに崋山が歩いた道筋であったと思われます。しかしながら、現在の道路は、かつての道路とは違って自動車が往来しやすいようにできるだけ直線的に改変されていたり、バイパス的に整備されたりしているために、かつてのままでは当然ないだろうし、場合によっては道筋がずれている可能性もあるから、現在の道路をたどる場合は、それはかつての道筋におおよそ沿ったものであると考えた方がいいと思われます。それでも、その周辺の景観、特に山稜の風景などは、崋山が眺めたものとそれほど大きくは変わっていないはずであり、またお寺や神社の位置や石造物などの位置も、それほど大きくは変わっていないはずであり、それらによって崋山の歩いた頃の景観を推測することは十分に可能です。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その2

2013-12-03 05:22:57 | Weblog
天保2年(1831年)10月29日(旧暦)の前小屋天神書画会に出掛けるにあたって、その日のお弁当などの用意を崋山のために懇(ねんご)ろにしてくれたのは妹茂登(もと)でした。崋山がその日起床したのは「寅半刻頃」(午前5時頃)。この時期は夜明けが午前6時半近くであるから、まだ未明に崋山は起きたということになる。妹茂登は崋山よりも早く起床して、弁当の準備などをしてくれていました。茂登の配慮は弁当の用意にとどまらない。わざわざ道案内の者(「導者」)を頼んであって、その「導者」の「義兵衛」という男が、崋山と高木梧庵が出立する前に岩本家に到着していました。というのも、途中、「山の神」というところがあって、そこでは道が四方八方に通じており、迷いやすいことが懸念されたからでした。足利五十部(よべ)村の代官岡田東塢(とうう・立助)から前小屋天神の書画会への誘いの手紙が届いたのは10月27日(旧暦)のこと。岡田はこう言ってきました。「あなたに参加して頂ければ書画会の光栄にもなるだろうし、また前小屋は深谷・三ヶ尻の近くであるから、三ヶ尻調査の手ががりも得られるかも知れません。だからぜひ御参加してみてください。」 すでに上毛や武蔵の人々の書画愛好家の間で、おそらく谷文晁の関係からその高弟の一人である崋山の名前が知られていた可能性を、この東塢の手紙の文面は示しています。崋山はもちろんその東塢の誘いに応じて、前小屋天神書画会に参加することを決めました。「これできっと三ヶ尻調査の手がかりをつかめるはずだ」と崋山は確信したものと思われる。お茂登は、兄崋山が藩祖康貞公の旧領地である三ヶ尻調査を藩主から命ぜられていたことをよく知っていたはずだから、前小屋天神社に向かう崋山のために、いそいそと懇ろな手配や準備をしてくれたのです。お茂登が、案内者として義兵衛なる者に連絡を付けたのは、おそらく28日(出立の前日)のことであったでしょう。 . . . 本文を読む

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その1

2013-12-02 05:55:33 | Weblog
崋山は天保2年(1831年)10月29日(旧暦)に、利根川の流れの南にあった前小屋(まえごや)村の天神社で開催された書画会に出掛け、その日は高島村の伊丹新左衛門家に、同じく書画会に参加した岡田東塢(とうう)や金井烏洲(うじゅう)らとともに泊まり、翌30日、東塢と烏洲の見送りを受けて、利根川を二ツ小屋(ふたつごや)の渡しで越えて桐生へと戻っています。この桐生から前小屋までのルートを、崋山はもう一度歩いています。それは同年11月のことであり、11月7日に崋山は前小屋の渡しで利根川を越え、それから深谷宿へと向かい、深谷宿で泊まっています。最初の時、つまり10月29日には、妹のお茂登(もと)が道案内として義兵衛という者を付けてくれ、その義兵衛は下村田(しもむらた)というところまで案内してくれたので、そこまでは道を迷わずに進むことができたし、その後も尾島を経由して、前小屋の渡しで利根川を越え、書画会が開かれる天神社のある前小屋村まで至ることができました。前小屋の渡しまでは崋山はすでに歩いていたから、桐生を出立して深谷宿(11月7日に宿泊)経由で大麻生村に向かう時も(三ヶ尻村をいよいよ調査するために)、前小屋の渡しを越えて深谷宿へと至るコースを崋山は選んだのです。崋山が歩いた桐生から前小屋村までの道筋をたどる試みを以前にしたことがありますが、実は、そのコース(道筋)は崋山が実際に歩いたコースからは大きくそれており、いつかその道をできるだけ正確にたどってみたいと考えていました。桐生や大間々、足利、前小屋、尾島、三ヶ尻、そして押切などの取材を終え、いよいよ最後の締めくくりとして、桐生~藪塚(やぶづか)~木崎(きざき)までの崋山が歩いた道筋(木崎~尾島~前小屋まではすでに歩いています)をたどってみることにしました。実は2日にまたがった取材旅行ですが、連続して桐生から木崎までを歩いたものとして、以下その報告をしたいと思います。 . . . 本文を読む