鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その10

2013-12-12 05:27:12 | Weblog

 「二ツ山古墳」に向かって直線の舗装道路を歩いて行きました。

 右側の松並木の下には草に埋もれるように動物の人形がいくつかあり、また腐って壊れかかった木製遊具や木製ベンチが散在していました。金属製の滑り台などもあるのですが、何か放置されているような印象を強く感じました。

 その印象を強くしたのは、「不法投棄防止厳重警戒地区 新田町」と記された看板が立てられていたこと。

 松並木の下に子どもたちが遊べる空間を整備したものの、利用者が少なく、やがては不法投棄が行われる場所になってしまったということから、この看板が設けられたものと思われます。

 今は、その看板のおかげか、不法投棄が目立つというほどではありませんが、遊具類は朽ち果てています。

 北方向を眺めてみると、畑や木々の向こうに上州の山なみが見えます。

 5分ほど歩くと、左手に木々のこんもりと茂った丘陵があり、脇道がその丘陵へと延び、その丘陵へと脇道がぶつかるところに白い案内板が立っているのが見えました。

 ということで、その案内板へと近寄り、解説文に目を通してみました。

 それによると、この二ツ山古墳は南東に近接する二号墳とともに前方後円墳であり、その他にいくつかの円墳もあったが、現在はそれらの円墳は残っていないとのこと。

 この古墳は主軸を北西から南東にとり、全長は74mで、高さは6m。

 二段に構築され、葺石と周囲に堀跡があるという。

 石室は横穴式石室。

 石室入口両側には参道をはさむように円筒埴輪が存在した、とのこと。

 形象埴輪としては、後円部円筒埴輪列の内側に馬12頭が1列に並び、間に人物埴輪等が散在していたらしい。

 総合的なところから推察すると、築造年代は飛鳥時代、すなわち7世紀の初めごろと考えられ、その規模から考えて、二ツ山古墳群の中枢をなしていたものと思われる、とも記されていました。

 現在は樹木が茂っていますが、もちろん築造時は樹木はありませんでした。

 さっそく前方部と後円部の頂き部分にのぼって、周囲を見渡してみました。

 北西方向には、枝葉の間から赤城山の山容を望むことができました。

 この前方後円墳が主軸を北西から南東に取っていることと、赤城山の存在は何らかの密接な関係を有しているのではないかと推察されました。

 後円部円筒埴輪列の内側に馬12頭(形象埴輪)が1列に並んでいたと案内板にありましたが、その馬は北西方向にそびえる赤城山に向かって、その顔を向けていたのではないでしょうか。

 その古墳から、通り隔てた二号墳へと移動しました。

 こちらにも案内板があり、「二ツ山古墳『二号墳』」とありました。

 それによると、この所在地は、「新田町天良(てんら)字新生割一六七-乙一七二」。

 北西に隣接する「一号墳」とともに、この付近の古墳の代表的なもの。

 墳丘は、主軸を東西にとる二段築造の前方後円墳で、「一号墳」と同様にまわりに堀跡が認められる(堀幅は20m)。

 全長は65mで、後円部の幅は50m。高さは3メートル。

 墳丘は川原石の葺石で覆われていました。

 築造年代は6世紀末から7世紀初めと考えられている、とのこと。

 こちらの古墳にもあがってみましたが、「一号墳」ほどの眺望はひらけませんでした。

 崋山が、現在の県道332号線(桐生新田木崎線)と重なる道筋あるいはそれに沿う道筋を歩いて行ったことは確かですが、そうすると、この「二ツ山古墳」を左手に見た可能性は十分に考えられるのですが、それについての崋山の記述はありません。

 帰宅して、新田分教場のことをいくらか知った時に思ったことは、少年飛行兵が練習機(「赤とんぼ」)で上空に舞い上がって下界を見下ろした時、田畑の広がりの中でランドマークのように目にしたものは、「生品神社」の鬱蒼とした杜(もり)と、この「二ツ山古墳」ではなかったか、ということでした。

 飛行場の真南に「生品神社」が見え、そして真西に「二ツ山古墳」が見えたのです。

 その間の原野(笠懸野)の中の一本道を、180年ほどの昔、崋山を含む3人が南に向かって歩いて行ったのです。

 

 続く

 

〇参考文献

・インターネットの「新田分教場」「陸鷲」関係の検索

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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