鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その5

2013-12-30 05:45:43 | Weblog
古沢喜兵衛(号槐市〔かいち〕)は大麻生村の名主であり、酒造業も営む豪農でした。持田宗右衛門(号逸翁)も押切村の名主。古沢槐市の俳諧の師匠は三ヶ尻の豪農黒田平蔵で、幽鳥の号を持つ。崋山は『客坐録』で、「三尻名主」と記しています。黒田幽鳥は、大里郡上新田(かみしんでん)村の代官柴田又兵衛の次男であり、三ヶ尻村の黒田家に養子に入った人物。俳諧の師匠であり門人は500人を数えたという。伊丹新左衛門(号水郷)は高島村の豪農。金井烏洲(うじゅう)の案内でその門前に至った崋山は、その屋敷の大きな門塀と広い敷地に驚いています。この新左衛門は「西医の法をこのミ、人を療す」る蘭方医でもありました。その新左衛門の弟が唯右衛門で、号を溪斎という。俳諧をよくし、江戸の桜井梅室の門人でした。桜井梅室は、前小屋天神社の書画会に招かれ、はるばる江戸からやってきて伊丹家に逗留していましたが、書画会が延び延びになってしまったため、ほんの数日前に江戸に帰ってしまったとは崋山の記すところ。伊丹渓斎は桜井梅室の有力門人の一人であり、かなり親交が深かったのでしょう。この伊丹家も名主を勤める家柄であり、利根川堤防改修工事などで大きな功績を残したらしい。金井家は佐位郡島村の豪農で養蚕長者。金井左忠太の号は烏洲(うじゅう)。この烏洲の父は文八郎と言って、号は万戸。俳諧に長じ、その俳諧は文政期に頂点に達し、「上毛俳壇は、ほとんど万戸の手中にあったといってよい」といわれるほどでした。天保2年(1831年)にはまだ62歳で存命中(天保3年死去)。万戸の長子忠雄(文八郎)は莎村(しゃそん)の号をもち、古賀精里の高弟でもあった人。五十部村(よべむら)の岡田立助(号東塢)と親しく、一緒に長崎に旅したこともある。文政7年(1824年)に31歳で亡くなるが、東塢との親交は弟烏洲に引き継がれる。その財力で質屋を経営するが、天保年間に伊勢崎藩への莫大な貸金が貸し倒れになり、その財産を失っています。烏洲は江戸で谷文晁の写山楼に出入りして絵を学び、崋山とは旧知の間柄。というふうに見てくると、岡田東塢・金井烏洲・伊丹渓斎・古沢喜兵衛・黒田平蔵・持田逸翁らは、文化的ネットワーク(とくに俳諧や書画)でつながる地方人脈を構成しており、しかも多くが豪農であり名主あるいは代官であったというように、地方農村の上層階級(名望家)であったのです。 . . . 本文を読む