鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その8

2013-12-10 05:43:08 | Weblog
太田市山之神町(やまのかみちょう)あたりは、東方向に八王子丘陵(崋山が「広沢山」や「吉沢山」と記す丘陵)が見えますが、あたりは「笠懸野」(かさがけの)という平地の広がりであり、山がほんそばにあるわけではない。なぜ「山之神町」(かつては「山の神村」)という町名(村名)であるかというと、やはり町内(村内)にある「大山祇神社」に由来するものだと思われます。大山祇神社は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)の父である大山積神(おおやまつみのかみ)を祀ったもので、全国に10326社あるという。総本社は、愛媛県今治市にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)。「山の神」や「大山津見神」とも言われ、鉱山や林業、また農業の神さま。「山の神村」は幕府代官岡登景能により笠懸野の原野が開発された時、設けられた8つの村の一つであり、「大山祇神社」はその岡登景能によって勧請されたものと思われる。その神社の名前から「山の神」という村名が生まれたのではないか。崋山は次のように記しています。「藪塚といふ。此間たゞ田圃の間を行。又やぶ木などのおほひたる下を通り、終に山の神といふに出づ。達路あり。田家に入てたばこの火をかる。それよりして大原あり。松並多たち、林樾(りんえつ)径を覆い、行事一里ばかり、山の神に到。こは土岐山城守どのゝ領分といふ。」 藪塚から田んぼの間の道を進むと「山の神」という地点があり、そこは道があちこちへと通じ、迷いやすいところ。藪塚もそうですが、ここ山の神も迷いやすいところであり、崋山の妹茂登(もと)が義兵衛という案内人を付けたのも、そこで迷ってしまう心配があったから。「山の神」の分かれ道があるところで、崋山は一軒の農家に入り、たばこの火を借りています。そこから一里ほど歩いて「山の神」に至ったとしていますが、これは「小金井」(こがない)の誤りではないか。「小金井」で古河街道(国道2号線)とぶつかり、そこで右折すれば村田に至るからです。義兵衛は、下村田まで崋山らを案内し、そこから桐生へと引き返しました。 . . . 本文を読む