鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その11

2013-12-13 05:48:58 | Weblog
崋山一行は、「笠懸野」の原野の中の、松並木がある道を歩いてやがて「下村田」(しもむらた)というところに入ります。この「下村田」というのは、『渡辺崋山集 第2巻』の後注によれば、「上野国新田郡村田村(新田郡新田町村田)」であり、現在は太田市新田村田町(にったむらたちょう)のあたり(の一部)に相当します。かつての「新田郡〇〇村」は、現在は「太田市新田〇〇町」となっている場合が多いようだ。地図で見ても周辺には、「新田〇〇町」となっているところが多い。かつての「新田郡」の「新田」はどうしても入れたかった、というこだわりを感じます。やはり「新田義貞」や「新田氏」を強く意識した、郷土意識というものがあるのではないか。私が生まれた福井の家から歩いて、田原町という駅から京福電鉄に乗り、三国(みくに)方面へと電車に乗って向かうと「新田塚」(にったづか)という駅があり、子ども心に「新田塚」(「しんでんづか」ではなく「にったづか」)とは何だろうという疑問がありましたが、長じてから、それが新田義貞が戦死したところであるということを知りました。中学校や高校の歴史の教科書には「新田義貞」という武将の名前は必ず載っており、ある時、その「新田塚」を訪れたこともあります。崋山は、「新田郡」から、新田義貞や新田氏を想起していることは確実ですが、岡田東塢(とうう)が待つはずであろう書画会が開かれる前小屋村へと急ぐために、寄れば寄れたはずの、本家本元の「生品神社」には立ち寄ることはしませんでした。案内人義兵衛は、生品神社近くの「下村田」というところまで崋山と高木梧庵を案内し、そこで自分の道案内の仕事は果たしたと判断したのか(桐生へと戻る時間も考慮に入れたかも知れない)、桐生へと引き返すことになります。崋山はその義兵衛に、案内してくれたお礼として「百文」を取らせています。 . . . 本文を読む