鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その3

2013-12-04 05:38:11 | Weblog
崋山が桐生から前小屋村まで赴いた道筋は、現在の道路ではどの路線に重なっているかというと、阿左美(あざみ)から藪塚(やぶづか)までは県道78号線(太田大間々線)、藪塚から新田木崎(にったきざき)までは県道332号線(桐生新田木崎線)、新田木崎から尾島までは県道311号線(新田上江田尾島線)、そして尾島から前小屋村までは国道354号線と県道276号線(新堀尾島線)になります。現在の太田市堀口町あたりで利根川を「前小屋の渡し」で越え、前小屋村に入っていますが、この前小屋村は現在の太田市前小屋町(まえごやちょう)であり、深谷市前小屋(まえごや)ではありません。深谷市前小屋は「南前小屋」、太田市の前小屋町は「北前小屋」とも呼ばれていますが、崋山の訪れた天神社は、現在の太田市前小屋町にありました。しかし大規模な堤防工事などにより、利根川の流路は崋山が「前小屋の渡し」を越えた頃のそれとは大きく変わり、前小屋の天神社の位置もそれがもとあった場所とは変わり、その天神社の建物も失われてしまいました。おそらく当時の利根川の流れは、現在の太田市堀口町を流れる早川に重なっており、そこに架かる不動橋のあたりが「前小屋の渡し」があったところであると私は推定しています。つまり崋山の頃の利根川は、前小屋村のあたりで大きく北側に弯曲し、利根川を「前小屋の渡し」で渡った向こう側、つまり利根川の南側にあったということです。現在の県道276号線の「不動橋」あたりまでが、利根川を渡るまでに崋山が歩いた道筋であったと思われます。しかしながら、現在の道路は、かつての道路とは違って自動車が往来しやすいようにできるだけ直線的に改変されていたり、バイパス的に整備されたりしているために、かつてのままでは当然ないだろうし、場合によっては道筋がずれている可能性もあるから、現在の道路をたどる場合は、それはかつての道筋におおよそ沿ったものであると考えた方がいいと思われます。それでも、その周辺の景観、特に山稜の風景などは、崋山が眺めたものとそれほど大きくは変わっていないはずであり、またお寺や神社の位置や石造物などの位置も、それほど大きくは変わっていないはずであり、それらによって崋山の歩いた頃の景観を推測することは十分に可能です。 . . . 本文を読む