鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その5

2013-12-30 05:45:43 | Weblog

  「楡山(にれやま)神社」入口には案内板があり、それによれば、この神社は平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に記載されている古い神社であり、幡羅(はんら)郡の総鎮守であるとのこと。

  「楡山」の由来は、昔からこの地方一帯に楡(にれ)の木が繁茂していたことによるという。

 江戸時代には「熊野三社大権現」と号したが、明治の神仏分離令によって社名を楡山神社に戻したとのこと。

 先ほど、福川を渡った時、橋の名前が「権現堂橋」とありましたが、それは「熊野三社大権現」に因むものであったのです。

  案内板に目を通した後、さっそく境内に足を踏み入れてみました

 右手少し入ったところにあったのが「荒神社」。

 板屋根で木組だけのような粗削りの建物の中に、立派な彫刻が施された社殿が安置されていました。

 楡山神社の社殿が向いている先は、私が入っていったところからは逆方向であり、御神木の大ニレの木は参道の入口右手に、幹の下部で切断された状態でわずかに残っていました。

  樹齢はおよそ600年であるとのこと。

  楡山神社裏手を走る通り(県道127)に戻り、歩くこと数分で、右手の電柱に「原郷」という地名標示を見つけました。このあたりは「原郷」というところなのです。

  深谷市循環バスの「原郷西部」バス停や「稲荷町3丁目」バス停を過ぎ、「稲荷町」交差点に至ったのが10:47。

  この交差点のある左右に延びる通りが旧中山道と思われ、まずここで右折することにしました。

  前小屋の渡しで利根川を越え、前小屋村、そして明戸(あけと)村を通過して深谷宿を目指した崋山と梧庵は、久しぶりで中山道に戻り、中山道六十九宿中最も規模の大きかったという深谷宿に足を踏み入れることになりました。

 それは天保2年(1831年)の11月7日(旧暦)の夕方頃であったと思われる。

 宿泊先は「土屋万右衛門」という旅籠。

 その「土屋万右衛門」という旅籠が、深谷宿のどこにあったかは分からない。

 しかし、崋山が深谷宿稲荷町で中山道に入ったのはほぼ確実です。

 私はというと、「稲荷町」交差点で右折して旧中山道と思われる通りへと入り、歩くこと2分ほどで右手に「稲荷神社」を見付けました。

 「稲荷町」という町名は、ここにこの「稲荷神社」があることによるものと思われました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡邊崋山と(訪瓺録)三ヶ尻』(熊谷市立図書館)

・『金井烏洲』しの木弘明(群馬県文化事業振興会)

・「渡辺崋山の調査協力者『三ヶ尻村黒田平蔵』考察」馬場國夫(『熊谷市郷土文化会誌』第64号所収)

・『客坐録 天保二年八月』

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)

 



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