鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その3

2013-12-28 05:16:41 | Weblog
『毛武游記』には、前小屋村の天神社書画会の会主「青木長次郎」家でのこと、「前小屋天神社」での書画会のようす、その夜泊まった「伊丹新左衛門」家でのことなどについての記述が詳しい。翌10月30日(晦日・旧暦)、崋山と梧庵は、二ツ小屋の渡しで岡田東塢(とうう)と金井烏洲(うじゅう)の二人に見送られて利根川を越え、桐生へと戻って行きます。崋山は、東塢と烏洲の二人に「深谷の事ねもごろにたのミ」別れを告げました。「深谷の事」とは、深谷の近くの三ヶ尻村の調査のことであり、その調査の協力を二人にねんごろに要請して別れたということであるでしょう。利根川を渡ってから、おそらくもと来た道へ戻ろうとして尾島へと向かった二人でしたが、途中で道に迷い、尾島には昼頃に到着。そこで昼食を摂った後、もと来た道をたどって桐生新町の岩本家にたどり着いたのは、その日〔天保2年(1831年)10月30日(旧暦)〕の夜、「戌のとき」すなわち午後9時頃のことでした。二人の帰着を知った侠医奥山昌庵(しょうあん)が早速訪ねてきたため、前小屋天神社の書画会のようすなどについていろいろと話し、寝たのは夜遅くになってから。この場面で『毛武游記』の「上冊」は終わっており、「下冊」の内容が、ではどういうものであったかは全く不明です。 . . . 本文を読む

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その2

2013-12-28 05:09:35 | Weblog
『客坐録』(かくざろく)〔天保二年八月〕には、「廿九日 前小屋天神」とあるが、これは天保2年(1831年)10月29日(旧暦)に前小屋天神社の書画会に参加したということを示すもの。「高島村伊丹新左衛門 号水郷 弟唯右衛門 号溪斎」とあるのは、この日の夜、高島村の伊丹新左衛門(号水郷)宅に泊まり、その弟唯右衛門(号溪斎)とも会ったということ。「佐々木雅逸 蘭学ヲナスイシ也」とは、当時伊丹家に滞在していた蘭方医が「佐々木雅逸」(正しくは「佐々木雄逸」)であり、この蘭方医に伊丹家で会ったということを示すもの。「長崎末次忠助度学ニ好ム」とは、おそらく佐々木雄逸が長崎の末次忠助(すえつぐただすけ・1765~1838)のことを語り、蘭学者として多方面にわたるすぐれた学者であるとしたことを記録したもの。「土屋万右衛門 深谷のはたごや」とは、おそらく、崋山が天保2年11月7日(旧暦)、中山道深谷宿で泊まった旅籠屋の名前が「土屋万右衛門」であったことを示すもの。「國濟寺 薬師堂」とは、深谷宿から熊谷宿方面へ中山道を歩いた時、右手にあったそのお寺へ立ち寄ったことを示すもの。「新堀森田佐治右衛門 古き家なり」とは、熊谷宿へ向かう途中、新堀(にいぼり)という土地で立ち寄った家が、森田佐治右衛門家であったことを示すもの。崋山は佐治右衛門と会っています。「黒田平蔵 三尻名主 俳諧を好 清水幽鳥」とは、三ヶ尻村の名主が黒田平蔵という者であり、俳諧を好んで「清水幽鳥」とも称している、ということを示すもの。「九日 桐生産物 葉ワサビ 鮎 赤腹ハヤ 下仁田葱 鰍 ツグミ」とは、よくわからないが、桐生や下仁田の名産をある人から聞きそれを示したものか。その話を聞いたのが11月9日(旧暦)のことであり、「ある人」とは、古沢喜兵衛(槐市〔かいち〕)か、あるいは槐市によって紹介された三ヶ尻の黒田平蔵(幽鳥)の可能性も考えられる。11月9日には、崋山と高木梧庵は、大麻生村か三ヶ尻村に到着していたことを示すもの。「廿七日 大麻生村 紅花 藍花 物産」とは、大麻生村の名産が紅花・藍花であったことを示すもの。「廿七日」とは、11月27日(旧暦)までは大麻生村の古沢家に崋山が滞在していたことを示すものか。であるなら、崋山が大麻生村から江戸へと向かったのは、天保2年の11月27日以後のことになる。 . . . 本文を読む