鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その9

2013-12-11 05:06:42 | Weblog
私はある土地を歩く時、大雑把な道筋については事前に頭に入れておきますが、事前に細かく調べて日程表を作るようなことはしません。現地に行ってから、現地で判断して歩くということが圧倒的に多い。だから道に迷うこともあるし、脇道や裏道にも入るし、興味をひかれて途中からある場所へと歩き、そのために遠回りをしてしまう時もあります。それはそれでいいと思っています。また訪れればいいからです(日帰りコースであれば)。しかし道に迷ったり、脇道や裏道に入ったことによって思いがけない出会いに恵まれることもあるし、また事前に綿密に調べないことによって新鮮な感動を覚えることも多い。綿密にたくさん調べておけば、多くの感動や収穫が得られるというわけでもないのです。特に「歩く」時はそう。今回の「陸鷲修練之地」の碑との出合いもそうでした。かつて私は、常陸の大津浜から五浦への海岸べりの道を歩いた時、「風船爆弾」の打ち上げ基地があった場所を通過しました。そこにはそのことを示す碑が建てられていました。あれを見た時とほぼ同様な驚きを伴う感動を、私はこの「陸鷲修練之地」の碑を見て覚えたのです。「ああ、かつてここはそういう場所だったんだ」という感動。その名残りは、まわりを見る限りどこにもほとんどありません。しかしその碑の存在によって、確かにここはそういう場所だったんだ、という認識を得ることができたのです。あの日本近代が経験した戦争が確かにあったということは、日本津々浦々にあるお寺の墓地を訪れれば、どこにおいても実感できることです。日本中を巻き込んだものであるということも、そのことから理解できることです。しかし日本国内における戦争関係の遺跡(戦争遺跡)となると、なかなか出合うことは珍しいのです。現地を歩いていて、そういう遺跡なり石碑なりにたまたま出合った時、私はその場所で、ある過去のある時期に展開されていた日常なり風景を想像します。そのあとで、もっと詳しくそのことについて調べていくと、その日常なり風景はさらに具体化していきます。「ああこういう日常なり風景が展開していたのか」という歴史認識の深まりを感じていく時です。もちろんそこには、その場所、その時期に生きていた人々がいる。その場所、その時期に生を営んでいた人々が、その後、どういう人生を送って行ったのか。私は、そこにも思いを馳せて行く必要があると思っています。 . . . 本文を読む