鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.12月取材旅行「前小屋~深谷~大麻生」 その6

2013-12-31 05:05:29 | Weblog
当時の人的ネットワークは、「俳諧」や「書画」によるものだけに止まらない。「蘭学」や「蘭方」による人的ネットワークもある。それがわかるのが、崋山の『毛武游記』で言えば榛沢(はんざわ)郡高島村の伊丹家での場面。伊丹家に金井烏洲(うじゅう)の案内で到着した崋山は、そこで伊丹新左衛門が蘭方医であることを知り、またその伊丹家に逗留している仙台出身の「洋学生」佐々木雄逸なる者と出会います。崋山は自分が知っている蘭学関係の人々の名を挙げて、雄逸に知っているかどうかを聞いてみたところ、雄逸はそれらの名をみんな知っていました。『客坐録』には、雄逸のことを「蘭学ヲナスイシ也」とあり、伊丹新左衛門と同じく「蘭方医」であったことがわかり、また長崎の末次忠助が洋学者としてあらゆる分野にすぐれていることを崋山に語ったらしいことも記されています。この天保2年(1831年)の秋、実は高野長英(1804~1850)が佐位郡境町の蘭方医村上随憲(1798~1865)のところに来遊しており、境町から高島村を経て10月22日に江戸に帰着しています。村上随憲は武蔵国久下(くげ)村(熊谷市)に生まれ、江戸に出て吉田長淑(ちょうしゅく・1779~1824)に学び、長崎に遊学してシーボルトに学んだ人であり、長英にとっては兄弟子となる人物。文政11年(1828年)上野国佐位(さい)郡境町に開業し、上州では「西に宗禎(福田宗禎)、東に随憲」と称された蘭方医。長英が高島村を経由して江戸に向かったということは、長英が伊丹新左衛門を訪ねた可能性を示すもの。以上のことは、伊丹新左衛門・佐々木雄逸・村上随憲・高野長英・上州および江戸の蘭方医や蘭学者の人的つながり(ネットワーク)をうかがわせるものです。『夢魂の人 高野長英私論』千田捷熙(ぎょうせい)によれば、佐々木雄逸は高野長英の門人であり、野田(群馬県北群馬郡吉岡町)に開業し、天保3年(1831年)7月28日(旧暦)にそこで客死しているとのこと。崋山と伊丹家で出会った翌年の夏のことになる。 . . . 本文を読む