鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その8

2013-12-10 05:43:08 | Weblog

 東武桐生線の藪塚駅前に出たのが7:33。

 「やぶ塚温泉観光案内図」を見た後、駅前の通りを少し北方向へと進んで、「ふれあいショップおおのや」の前に出たのが7:36。

 前に木崎への道を尋ねたところです。

 ちょうど若女将さんのお母さんと思われる方が、通りに用事で出てきたところで、この県道332号線を南へ進んで行くとどこに至るかをお聞きしたところ、若女将さんと同様、親切に教えてくれました。

 前はここから西方向へと進んでしまったために、大原町経由で木崎へと向かってしまったのです。

 今回は、県道332号線(桐生新田線)をまず南下していくことに。

 「おおのや」の裏手(西側)の道を進んで行くと、まず目に入ったのが「藪塚劇場」とコンクリート壁に記された廃墟になったような建物。1階の入口付近には段ボールを束にして縛ったものが積み重ねられています。

 昭和30年代あたりの場末の劇場を彷彿とさせるもの。

 映画館か演劇場であったのだろうか。

 しばらくして目に入った道路標示には、「県道332 桐生 新田木崎線 太田市藪塚町」「新田木崎まで10km」と記されていました。

 今が7:41であるから、木崎へは10:00頃には到着できる勘定になります。

 やがて道は畑の広がりの中を行くようになり、左手向こうには八王子丘陵が見え、道端にはたまごの自動販売機が見られるようになりました。

 たまごは10個ほどそれぞれの販売機のケースに入っており、値段はというと「200円」でした。連絡先住所は「うみたてたまご丸天農園」「群馬県新田郡新田町小金井」となっていました。

 やがて通り右側の電柱に「山之神町」という地名表示があり、このあたりが「山之神町」であることを知りました。

 「山之神」の交差点があったところは、そこからさらに南へと進んで、北関東自動車道の高架を潜る手前でした。

 交差点の標示には「太田市 山之神」とありました。

 崋山が、「達路あり」と記したところであり、現在は「北関東自動車道」が東西に太く走っていて、それほど「達路」という感じではありませんが、崋山が通った頃は、道が四方八方に延びているところであったのでしょう。

 崋山は、このあたりで一軒の農家に入り、たばこの火を借りています。

 「山之神」の交差点を過ぎ、北関東自動車道の高架を潜って、進むこと数分ばかり、左手の「ミモサの森」という瀟洒な店舗の一角に、うすい水色のスバル360が置いてあるのを見掛けました。

 そう言えば、太田市は富士重工業(スバル)の企業城下町。

 「スバル360」と言えば、「てんとう虫」とも呼ばれて一時代を席巻した軽乗用車。

 よく手入れがなされているようで、まるで新品状態のように、店先に置かれていました。

 そこからまたまた左手遠くに八王子丘陵を眺めながら、畑の中の道を進んで行くと、右手の電柱に「寄合町」という町名標示が現れ、そこからしばらく進むと、やはり右手に石碑らしきもの見掛けたので、それをよく見てみると、それには「少年飛行兵操縦教育校 旧熊谷陸軍飛行学校 陸鷲修練之地」と刻まれていました。

 ここには陸軍の飛行学校があったのか、と、やや驚きを伴った感動を覚えました。

 その石碑の裏面には、「平成七年八月 終戦五十周年記念 元少飛 柳文夫書 石工 渡辺亀次」と刻まれていました。

 「元少飛」とは、「元少年飛行兵」ということであるでしょう。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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