鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その4

2013-12-05 05:28:33 | Weblog
崋山が阿左美から藪塚への道を歩いた時、進行方向左手に見えてきた山は、荒神山であり、そして天王山であったものと思われる。荒神山の西麓に阿左美生品神社があり(崋山はその鎮守の森を描いています)、天王山の西側に藪塚があります。藪塚から道を南下していくと、左手に見えた山は遠ざかり、やがて遠く東南方向に見えてくる山は、太田にある金山になる。崋山は利根川を渡って太田宿経由で桐生へと向かう際に、この金山の東麓を通っているし、また天王山や荒神山、そして茶臼山などのある山地の東側を歩いているから、今度はそれらの山地の西側を通っているという意識があったでしょう。崋山はその山地の北側を「広沢山」、南側を「吉沢山」、そしてやや離れた太田にある山を「金山」と記しています。歩いている途次、道案内をしてくれている義兵衛からそれらの山の名前を聞いたのだろうか。それとも土地の人に聞いたのだろうか。荒神山の西側に広がる生品神社(阿左美生品神社)の「鎮守の森」を中心とした「生品の森」を過ぎると田んぼが広がり、その田間を歩いて行くと田んぼの中に「牛の塔」と呼ばれる石造物があり、崋山はそこで休憩かたがた「牛の塔」をスケッチしました。藪塚というあたりですが、このあたりは田んぼが見渡す限り広がり、その中の道を崋山たち3人は進んでいきました。藪が繁って木陰になっているようなところを通過して、崋山たちは「山の神」と呼ばれている地点へと至っています。崋山の「生品森」の絵を見ると、鎮守の森の背後(北側)の左側に、桐生市街の北側に連なる吾妻山などを含めた山々が描かれていますが、実際に現在の道筋を歩いてみると、桐生北側に連なる山々は容易に見えてきません。というのは道路沿い密集する家並みが、北側の視界を遮っているからなのですが、かつては道沿いに建つ人家はいたって少なく、もっと視界が開け、北側の山稜はもっとよく見えたものと思われます。この絵の右側に描かれた丸みを帯びた山稜は荒神山であり、崋山が「広沢山」と記している山の一部であると私は推定しています。 . . . 本文を読む