鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その12

2013-12-14 05:28:24 | Weblog

 「醫王寺」前から信号のある交差点に出たのが9:10。

 古い石製の道標が突き出ており、それには「東 太田 鳥山」と刻まれていました(「鳥山」〔とりやま〕は「小金井」と「太田」の間にある地名)。

 ここを右折すれば、生品神社へとぶつかります。太田から生品神社へ赴く場合は、人々はこの道をたどったものと思われる。

 左手の工場のような建物の壁には、「丸天農園養鶏孵化場」と記されています。

 先ほど道端に「養鶏場直売新鮮鶏卵」と記された、最新式のタマゴの自動販売機がありましたが、このあたりは養鶏業が盛んな地域であることが、この工場の名前からもわかりました。

 右手角には、ずっとむかしからここにあったのではないかと思わせる商店がありました。

 ここから南に向かって道はさらに延びているのですが、その道はまっすぐな直線道路であり、今までのような旧道の雰囲気を残している道ではありませんでした。

 かつて田んぼの中をいく畦道のような曲がりくねった一本道があったのかも知れませんが、大規模な耕地整理(区画整理)によって、まっすぐな道が新造された雰囲気があります。

 しかし構わず、その南へと直進する道を歩くことにしました。

 道の両側は稲刈りをすでに終えた広々とした田んぼであり、大型コンバインかそれ専用の大型農業用車両から自動的に出されたものと思われる、幅広の大型車輪状の藁束が点在していました。

 前方やや右手に遠く見える山稜は、秩父山地であるでしょう。

 振り返って北西方向には、赤城山がその堂々たる山塊を見せています。

 西方向には、妙義山ののこぎりのような稜線がうっすらと見える。

 そのやや右側には浅間山が雪をかぶった白い姿を見せています。

 その道がぶつかったところは工業団地の大きな広がりのようであり、そのぶつかった地点に公園らしき区画があって案内板らしきものが立っているので、何かと思って立ち寄ってみたところ、そこはたんなる工業団地の中の公園といったものではなく、「小金井史跡公園」というものでした。

 復元図も掲載されているその案内板の説明によると、この公園は、新田東部工業団地の造成に伴う発掘調査によって発見された「中溝・深町遺跡」を保存する目的で造られたもの。

 遺跡には、復元図のような古墳時代前期(今からおよそ1600年前)頃の建物跡や堀跡・井戸跡があったとのこと。

 石組みの井戸とまつりを行う特殊な掘立柱建物、堀で方形区画し、その内側に建てられた大型掘立柱建物、堀の外側の倉庫などがあり、一般の村とは明らかに異なる特殊な遺構をもつものであるという。

 さらに、小銅鐸や銅鏡なども出土し、このようなところから、この「中溝・深町遺跡」は、この地域を治めていた豪族に関わる貴重な遺跡として、県の史跡に平成10年3月に指定されたのだとのこと。

 この公園のあるあたりは、「新田東部工業団地」であったのです。

 さっそく中へ入ってみると、石製の標柱があり、「群馬県指定史跡 中溝・深町遺跡」と刻まれていました。

 中にも案内板(解説板)があり、古墳時代前期にこのあたりを治めた豪族の、水に関わる祭祀を行う「祭殿跡」を中心とした遺跡であるように思われました。

 北西方向には赤城山のどっしりとした山容が見え、あの「二ツ山古墳」一号墳の主軸が北西から南東にあり、さらに頂部に一列に並べられた形象埴輪の12頭の馬が、おそらく赤城山を向いていたらしいことを考えあわせると、「赤城山」が重要なポイントとして意識されているのを感じてしまいます。

 「赤城の山も今宵限りか」とは、講談の国定忠治の有名なセリフですが、ずっとむかしからこの地域の人々にとって、赤城山は特別な存在であったことを伺わせる遺跡でした。

 史跡公園を一巡した後、公園内の東屋でしばしの休憩をとりました。

 

 続く

 

〇参考文献

・『渡辺崋山集 第2巻』(日本図書センター)



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