鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2013.11月取材旅行「桐生~山之神~木崎」 その10

2013-12-12 05:27:12 | Weblog
新田市野倉町の区画はなぜ45度ほど傾いているのか、という疑問は、なぜ熊谷陸軍飛行学校新田分教場の敷地は45度傾いていたのか、という疑問と同じことになります。陸軍飛行学校は、前にも触れた通り、陸軍が戦闘機(私は零戦や隼などをすぐに思い浮かべます)の操縦士(パイロット)を養成するための練習用学校としてつくったものであり、そこには当然のこととして飛行場がありました。練習機は「九十三式中間練習機」。通称「赤とんぼ」と言われるものでした。少年飛行兵はこれに乗って操縦・飛行訓練をするわけです。この上州における崋山関係の取材旅行をしてきて、地域農村部の景観として特徴的なものの一つは、敷地の北西部に高々と繁る屋敷林でした。これは有名な「赤城おろし」(北西風)から屋敷を守るためのもの(防風林)でした。屋敷林を伴う農家はかなり減り、新建材の家が圧倒的に多くなってはいるものの、農村部を歩いているとそのような屋敷林(防風林)をもつ農家を、今でもあちこちに見ることができます。飛行場が45度傾いているということは、滑走路は南東から北西方向に向けて延びていたということ。つまり「赤城おろし」「上州の空っ風」を考慮したものであったということになります。新田市野倉町のほぼ正方形の区画の一辺は約1.5km。ということは新田分教場の滑走路の長さは1kmほどであったのかも知れません。 . . . 本文を読む