天保2年(1831年)10月29日(旧暦)の前小屋天神書画会に出掛けるにあたって、その日のお弁当などの用意を崋山のために懇(ねんご)ろにしてくれたのは妹茂登(もと)でした。崋山がその日起床したのは「寅半刻頃」(午前5時頃)。この時期は夜明けが午前6時半近くであるから、まだ未明に崋山は起きたということになる。妹茂登は崋山よりも早く起床して、弁当の準備などをしてくれていました。茂登の配慮は弁当の用意にとどまらない。わざわざ道案内の者(「導者」)を頼んであって、その「導者」の「義兵衛」という男が、崋山と高木梧庵が出立する前に岩本家に到着していました。というのも、途中、「山の神」というところがあって、そこでは道が四方八方に通じており、迷いやすいことが懸念されたからでした。足利五十部(よべ)村の代官岡田東塢(とうう・立助)から前小屋天神の書画会への誘いの手紙が届いたのは10月27日(旧暦)のこと。岡田はこう言ってきました。「あなたに参加して頂ければ書画会の光栄にもなるだろうし、また前小屋は深谷・三ヶ尻の近くであるから、三ヶ尻調査の手ががりも得られるかも知れません。だからぜひ御参加してみてください。」 すでに上毛や武蔵の人々の書画愛好家の間で、おそらく谷文晁の関係からその高弟の一人である崋山の名前が知られていた可能性を、この東塢の手紙の文面は示しています。崋山はもちろんその東塢の誘いに応じて、前小屋天神書画会に参加することを決めました。「これできっと三ヶ尻調査の手がかりをつかめるはずだ」と崋山は確信したものと思われる。お茂登は、兄崋山が藩祖康貞公の旧領地である三ヶ尻調査を藩主から命ぜられていたことをよく知っていたはずだから、前小屋天神社に向かう崋山のために、いそいそと懇ろな手配や準備をしてくれたのです。お茂登が、案内者として義兵衛なる者に連絡を付けたのは、おそらく28日(出立の前日)のことであったでしょう。 . . . 本文を読む