ちょっとマンネリですが・・・

ダラダラ過ごしている毎日のことあれこれ・・・・

仕事力は、自分の仕事に飽きないこと。

2008年10月16日 | Weblog
「朝日新聞」2008.10.5付けより。

“朝日求人”の「仕事力」というコーナーで秋元康氏が語っていた最後のセンテンスがこれだった。まず、前提条件としては人生には勝ちも負けもないといっている。それは、しばしば勝ち組、負け組などという言葉がマスコミを通じて流行ったからだろう。

むしろ仕事をする際に、自分の目標を越えられたかどうかを自己評価することはいいようだ。つまり漫然と仕事流さないでやることが大切だといっている。自分の能力や目標を意識することの大切さを述べている。

そして、仕事の全てで勝ち越すことを目標にしても仕方がない。もし、10勝0敗ばかりを目指していたら、緊張で疲れすぎてしまうのではないだろうか。むしろ、5勝4敗1分けという考え方の方が気が楽になる。

野球の好打者の基準は3割と言われているが、7割は失敗が許されるともいえる。自分の仕事を振り返っても良かったり悪かったりの繰り返し。でも結果的に良い方が少し多ければいいのだろうな。

数日前の氏の言葉では「仕事を楽しむ力こそ仕事力だ」とあったが、そのためには仕事に飽きないことがまず必要だろう。どれだけ今の仕事に関心をもってやれるだろうか?

ちょっと・・・意外なこと・・・!!!(個人的なことで)

2008年10月14日 | Weblog
たまたま一昨日、『「!」や「?」を一つでも持ち帰ってもらえたら十分・・・』なんて日記に書いていたらそんな「!」や「?」に遭遇したのです。

連日にわたってアップしていたこのブログが紹介されているなんてことがあるんですね。(期間限定ですが)

ちょっと意外でびっくりした次第。いったいどんな風に書いてあるかは、下記をクリックしていただければお分かりいただけます。

http://azby.fmworld.net/app/customer/bloghiroba/top/goldblogintroduce.act

いずれにしても、たまたま使っている富士通のパソコンだったので、そこの「ブログひろば」というところに以前登録してあったのです。

もし、皆さんのうちでも富士通のパソコンをお使いでしたら、一応登録だけでもしておけばいずれ紹介されるかもしれませんね。

「カッコいい」「カッコ悪い」という次元で教える。

2008年10月14日 | Weblog
「プレジデント」2008.9.29号より。

これは「叱り上手入門」というコーナーである心理学者が語っていた中にあったフレーズ。もし、子供だったらマナーやエチケットが悪ければ親や学校の先生が教えてくれる。ところが、困ったことに社会人になるとマナーを欠いた行為をしてもだれも教えてくれないことのほうが多い。

そして、最近のはやりの言葉でいえば、周りの空気が読めないでいる人にストレートに注意をすれば、相手のメンツをつぶしたり、また反発を食らったりもするだろう。

そこで、空気を読むとかマナーに関する気配りを教えてあげる際には、「~するとカッコいいよ」とか「~みたいなのは、カッコ悪いね」というような教え方もいいらしい。

また別な考え方として「モテる」「モテない」という指導も若い部下には有効らしい。たとえば「人と待ち合わせをする時ぐらいタバコは我慢しろ」とストレートに注意するよりも「相手がタバコを吸わないなら、たとえ灰皿が置かれていても吸わない方がモテるかもよ」などと。

いずれにしても、相手がこちらの忠告を気持ちよく受け入れてもらうためには、ちょっとした表現で結構違ってくるものだな。いずれにしても、怒鳴られてその気になる人はいないでしょうからね。言葉一つで聞いてもらえたり、もらえなかったり・・・

まともであることも善し悪しだ。

2008年10月13日 | Weblog
「感動をつくれますか?」久石譲著より。

久石さんはベテランの作曲家で、長年にわたって宮崎駿監督のアニメ映画作品の作曲を数多く担当している。最近では「崖の上のポニョ」もそうだった。また北野武監督映画でも作曲をしていた。それだけ信頼されるのは実にすごいことだ。

さて、そんなものづくりの人間にとっては「まとも」という言葉は恐怖の刃ともなるらしい。もし、音楽制作を頼まれた監督に、「今度の作品のテーマはこれでいきたいと思う」と言った時、「まともだね」と言われたらそれでは不十分だという意味と同じだろう。

つまり、意外性がない、クリエイティビティが乏しいと言われているのと等しいことになるのだ。普段の生活をしているなら、「まとも」であることは結構なことでもあるが、仕事によってはダメとイコールの意味に変わってしまう。

この場合の「まとも」は「ありふれていて面白みがない、誰でもそこまでは考える、作品としては価値がない、対価を払うに値しない」などを意味するのだろう。実際は、“まとも”な生活ができればいいんでしょうが、フリーターやニートと呼ばれる人たちにとっては、それ自体がかなり困難なことかもしれない。

とはいっても、こんな低迷した経済状況では、たとえ今現在まともな生活をしていても、その“まとも”な状況を継続するのさえ難しい気もしてくるが・・・

「!」や「?」を一つでも持ち帰ってもらえたら十分・・・

2008年10月12日 | Weblog
「相鉄瓦版」2008.10月号より。

偶然に近いが、これもまたアートつながりの日記となってしまった。この号の特集は「子どもと楽しむゲイジュツの秋」となっていた。その中で、ウォールペイントアーティストのロコ・サトシさんが述べていた中にあったフレーズ。そして、この「!」や「?」とは「楽しい!」や「ビックリ!」、「なんで?」や「不思議だな?」というようなものだった。

ロコ・サトシさんはもともと横浜の桜木町の高架下で壁画を描いていた。日本のウォールペイントの草分け的な存在でもある。そして、そんな作品が評価されて1989年には横浜博覧会で最大級のパビリオンをペイントしていた。かつて週刊誌などでもインパクトがあるウォールペイントが取り上げられたのを何度か見たことがあった。

ロコさんは現在では、子ども相手にワークショップで教えている。お絵描き教室とはまったく別ものらしい。お絵描き教室ではいろいろな技術を教え、テーマや課題を与えて、それに沿った絵を描かせる。そして、評価するものだ。

しかし、このワークショップでは絵を描かなくても、ハサミで紙を切るのが楽しければそれでもいいという。技術は関係なく、子どもが気が済むまで遊ばせてくれるようだ。子どもたちが「納得するまで」やらせるというところがポイントだった。

子どもたちは、長い時間をかけて出来上ったものは喜びよりも驚きのほうが大きいと感じるようだ。そして「できた!」という気持ちを持てるという。そうして、「!」や「?」を経験してもらえるのがロコさんは喜びだと感じている。大人だって、楽しめる「!」や「?」をたくさん経験したいものですね。

「絵を描く人は変わった人が多いけれど、それには理由がある」

2008年10月11日 | Weblog
「感動をつくれますか?」久石譲著より。

先日観た映画「アキレスと亀」では売れない画家(北野たけし)が主人公だった。それも子どもの頃から実に絵画の世界にのめりこんでしまって、一生そのまま変わっていない。本当に一般人からみれば、実に変わった人間に映る。

だからこそ、このフレーズに出会ったとき気になった次第。上記フレーズは久石さんがラジオ番組に出演しているとき、養老孟司さんから聞いた言葉だった。養老さんの説明によれば、音楽や文学や映画などは時間の経過の上に成り立ってるという。そして、それらはみな論理的構造をもっているものだった。

それに比べると絵は、見た瞬間に表現するものが伝わってくる。またその作者もその場でのひらめきで作品を作ってしまうこともある。論理よりもむしろ感覚的なものの比重が高いということだろう。

だから、常識を逸脱し、自由に破天荒に生きる画家がいたりすることがある。ゴッホは耳を切り取ったあとも、自画像を描いていたし。先ほどあげた「アキレスと亀」の主人公も死をも恐れない、まさにそんな生き方をしていた・・・な。

「カッコいい」「カッコ悪い」という次元で教える。

2008年10月11日 | Weblog
「プレジデント」2008.9.29号より。

これは「叱り上手入門」というコーナーである心理学者が語っていた中にあったフレーズ。もし、子供だったらマナーやエチケットが悪ければ親や学校の先生が教えてくれる。ところが、困ったことに社会人になるとマナーを欠いた行為をしてもだれも教えてくれないことのほうが多い。

そして、最近のはやりの言葉でいえば、周りの空気が読めないでいる人にストレートに注意をすれば、相手のメンツをつぶしたり、また反発を食らったりもするだろう。

そこで、空気を読むとかマナーに関する気配りを教えてあげる際には、「~するとカッコいいよ」とか「~みたいなのは、カッコ悪いね」というような教え方もいいらしい。

また別な考え方として「モテる」「モテない」という指導も若い部下には有効らしい。たとえば「人と待ち合わせをする時ぐらいタバコは我慢しろ」とストレートに注意するよりも「相手がタバコを吸わないなら、たとえ灰皿が置かれていても吸わない方がモテるかもよ」などと。

いずれにしても、相手がこちらの忠告を気持ちよく受け入れてもらうためには、ちょっとした表現で結構違ってくるものだな。いずれにしても、怒鳴られてその気になる人はいないでしょうからね。言葉一つで聞いてもらえたり、もらえなかったり・・・

人間、飢えてりゃ芸術なんて関係ない・・・

2008年10月10日 | Weblog
「アキレスと亀」(北野武監督映画)より。

たまたま昨日アートということについて触れたら、昨日観た映画では売れない画家が主人公だったので、上記のセリフが気になった次第。画家志望の若者二人に向かって屋台のおでん屋のオヤジ(大竹まこと)が発していた言葉だった。

飲みながら芸術がどうのこうのというような話をしていると、それを聞いていたオヤジが「飢えているアフリカで絵画とおにぎりを差し出したらどっちを取ると思う?」というようなことを若者に問いかける。

もちろん答えは明白なことだが。生きるか死ぬかという究極な状態では芸術などなんの役にも立たない、ということが言いたかったのだろう。それでも、若者には芸術を目指していこうという狂気じみた者もいるかもしれない。

この映画の中では主人公の身近にいる何人もが死んでいく。そしてどんな状況に置かれても絵画を続けていこうとする主人公がいる。常識的で平安で当り前の生活からはインパクトがある作品が生まれないのだろうか、というような疑問さえ提示されているようだ。

実際は必ずしもそうではないとは思うが。中にはかなり普通の生活とはかけ離れ、芸術作品の制作にのめりこんでしまう人も多いのだろうな、と思わせられる。それはそれで幸せなんだろうが、その前にきっちり生活できるということが前提でもあるとも思えるが。

「アートを定義すると“おもてなし”・・・」

2008年10月09日 | Weblog
「アーバンライフ・メトロ」2008.10月号より。

さまざまなスタイルでアーティスト活動をしている日比野克彦さんのこのフレーズが気になった次第。一般的な意味合いでは、アートは「美術、芸術、技術」などが思い浮かぶ。しかし、それを定義するなら、“おもてなし”だという。

その心は何だろう、と思ったら、次のように表現されていた。「相手の気持ちを思いやるから表現できるのだし、理解されたいと思うから表現するんです。・・・」と。

確かに評論家が一方的にこれは素晴らしいものだ、といってもそのように鑑賞できるものでなはい。また、それは見る人が鑑賞できる力があるかどうかにもよるだろう。むしろ誰にでも楽しめるというような作品を日比野さんは目指しているのではないだろうか。

だから、アートは美術、芸術、技術などというように「術」ではなかったのだ。本来アートとはもっと広い意味合いがあったのだろう。「アートはおもてなし」という言葉が新鮮に感じられ、なぜか共感してしまった。

アートが芸術だと考えたりすれば、なぜか自分とはかけ離れたところにあるもののようにさえ思えてくる。しかし、むしろオリジナルな手作り品で相手をもてなすという風に考えても悪くないとも思えてきたりした・・・な。

“星野ジャパン”営業マン。

2008年10月08日 | Weblog
「プレジデント」2008.9.29号より。

これはちょっと面白い表現だと思ったので取り上げてみた。ここでは「嫌われるKY(空気読めない)営業」についていくつか取り上げられていたが、そのうちの一つがこれだった。

「できません」と言って帰ってしまうのは営業失格だが、それ以上に最悪なのは「できます」と言ってできない約束をする営業マンだという。そこで、引き合いに出されたのが北京五輪で野球の日本代表監督を務めた星野仙一氏だった。

彼ははっきりと「金メダルしかいらない」と言っておきながら、銅メダルにさえ届かなかった。誰もが何らかのメダルを期待するほどの言葉だったがそれを裏切ってしまった。

しかも代表監督となった時点ではかなり期待は大きかっただけに、その後の世間の批判も相当なものだった。短期決戦では決して期待はできないと烙印を押されたようだ。

要するに「できない約束をする実力偽装の営業マン」を意味していたのだ。もっともこんな表現は一時的なものでそう長くは続かないだろう。

蛇足ながら、“シーラカンス営業マン”というのもあった。これは、接待上手が営業力と思いこんでいる営業マンのことだった。実に古い体質の、つまり化石のような営業だなとも思えるな。

仕事というのはドミノ倒し・・・

2008年10月07日 | Weblog
「朝日新聞」2008.9.28付けより。

秋元康氏の言葉だった。プロの作家というものは、さすがいろいろな表現を思いつくものだと思わせられる。仕事がドミノ倒しとは、つまり連鎖させなければならないからだった。

一つだけの仕事で完結してしまうのではなく、次の仕事へと、点が線になり面になるように広がっていくべきだという考え方だった。まさにそれは積極的に仕事を面白くしていくためのノウハウにさえ思えてる。

どんな仕事もいやいややっていたり、強制され、義務感だけで動いているうちは疲れも増すだろうし、何より面白くもない。

多少なりとも面白くしていくためには、人からもらったアイデアではなく自ら企画したものの方がやりがいもある。秋元氏は、原稿の締め切りに追われると、真夜中、書斎で一人「面白~い!」と絶叫するという。

ここでは最後に「仕事を楽しむ力こそ仕事力だ」と述べている。どれだけ今の仕事を楽しめているだろうか、とたまには振り返ってみる必要もありそう・・・だな。

新年原稿というものは、あれはみんな旧年原稿である。

2008年10月06日 | Weblog
「回転どあ/東京と大阪と」幸田文著より。

当たり前だと言えば、当たり前なことだろう。新聞にしても、雑誌にしても、会報、フリーペパー、広告の文章・・・。あらゆるものの新年向けの印刷物は旧年に作られている。身近なものでは年賀状がそうだろう。

「新年明けまして・・・」とは印刷されたり書いてあっても、それは旧年に書いていることだ。そして、年が明けてから一斉に表に出てくる。それは当り前のこととして受け取っている。

実際はどんなに新鮮な正月が盛られていても、去年あるいはそれ以前の正月の風景になっているもの。幸田さんは、年の暮に新年用の原稿を依頼されていた。そんな時は、その年の正月のことで、11か月のストックに堪えて記憶に残っているものを書いていたという。

要するに、元旦に出かけた時の正月風景を見て、目に留まったものを取材してストックしておくということだろう。といっても、そのすべてが使えるわけではないらしい。ごく少ない印象に残っているものだけが使えるということだった。

先日、大型電気店に行ってみると、もう年賀状ソフトの新しいバージョンが山積みにされていたっけ。また今日大型の文房具店に入ったら、来年のカレンダーや手帳類がもう並んでいたな。そんなものを目にするとなんだかあわただしささえ感じられてくるな~

ほとんどの人は、失敗が続くことで負ける。

2008年10月05日 | Weblog
「ここ一番にリラックスできる50の方法」中谷彰宏著より。

たとえ何連勝もしても、それを上回る負けがあれば、結果的に負けになってしまう。たとえ一回ミスしても、その後に勝ち続けられれば成功ともいえる。成功を続けるためにはやはり精神力が問題になってくるようだ。

氏はサッカーを引き合いに出している。サッカーはルールと一緒にスピリットをもたらしたようだ。そのスピリットとはラテン・スピリットだという。これはその瞬間に生きるという意味でもあった。

サッカーではしばしばゴールが決まると、大きなガッツポーズが見られる。これがラテン・スピリットで成功した瞬間を喜び、またすぐに忘れてしまうということであった。もちろん失敗しても同じく、すぐに気持ちを切り替えて忘れてしまう。

もともと日本人は、勝っても負けてもしみじみとして余韻を楽しむことがことが多かったようだ。そして、むしろ「根性」「一生懸命」という気持ちでスポーツをしてきた。これがラテン・スピリットになると「リラックス」「エンジョイ」となるらしい。

これはいい加減ということではなかった。当然ながら、勝つためにとことん努力するのが一流人ということになるかな。失敗は続けない・・・(という精神的パワーが持てるうちはいいがなぁ~)

人間の脳はサプライズを好む。

2008年10月04日 | Weblog
「暮らしの風」2008.10月号より。

茂木健一郎さんの「暮らしのクオリア」というエッセイのなかのワンフレーズだった。この日のタイトルは“アインシュタインのレストラン”というもので、氏が学生時代に東京近郊へちょっとした小旅行をしたときのあるレストランでの思い出が書かれていた。

そこはイタリアンのレストランだったらしく、茂木さんはパスタやワインで食事をしていた。すると、カウンターの中には子どもの頃から尊敬していた、アインシュタインにそっくりな顔をしたおじさんがいたのだ。

それが氏にとってはサプライズだったようだ。そんな偶然の出会いに、脳内快楽物質である「ドーパミン」が放出されたという。氏は勝手にアインシュタインのレストラン、と思いながら得をした気分になったという。

しかしその後、数年続けて行ってみたが会えなかったようだ。そして、思い切って「この店に、アインシュタインに似た方がいらっしゃいませんでしたか?」と尋ねている。すると、その店の経営者の親類の方で少し前に亡くなっていたことがわかったという。

やはり、自分にとって素晴らしいサプライズの思い出というものは何十年たっても忘れないものかも。そんな宝物のような思い出、いくつあるだろう?昨日あったことはすぐに忘れて思い出せないのに、遠い昔のことは意外に記憶に残っていたり・・・。

つい手狭なわが家の庭を忘れて植えてしまう。

2008年10月03日 | Weblog
「回転どあ/東京と大阪と」幸田文著より。

これは“いのち”というテーマで書かれたエッセイのなかにあった一文だった。ここでの、“いのち”とは竹のことだった。その勢いのすさまじさに驚かされたという話だが、それは竹を一度庭に植えたことがある人なら経験しているのではないだろうか。

実は私の家の庭にも竹があるので毎年それを痛感している。孟宗竹のような大きなものではなく、直径3~4センチほどのものだが、20年ほど前に庭が殺風景だと寂しいからと3本ほど買ってきて庭の片隅に植えておいた。

はじめの4、5年は涼しげでよかったものの、その後は毎年6、7月の梅雨時になると大量に芽を出すようになってしまった。結局そのままにしておいたら庭が竹やぶになってしましそうなので、数本だけ残して伸び始めに根元から切るようにしている。

ここに書いてあったのは、あるお宅では床下から筍が伸びてきて、畳を押し上げたというものだった。それは、えたいの知れない生きものに出合った思いであった、とある。本当に竹は地中深くに根を張っていて、勢いがつき出すとどこから芽を出してくるか想像もつかない。

このエッセイでは、「竹は、生きるいのちの無気味を知らせてよこす植物だ」という結びになっている。何となく実感!だから、はじめに竹を庭の片隅に植えてしまったことを後悔している次第。もはや手遅れ・・・