カルカッタより愛を込めて・・・。

次のアピア40のライブは9月13日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

体幹トレーニング。

2015-01-15 12:56:37 | Weblog

 最近セブンイレブンに仕事の途中トイレを借りに行く時、ちょっと本棚にある一冊の本が気になっていた。

 一度その本を手に取り、パラパラとめくったことがあったが購入までには今一つ決断の意が決まらなかった。

 その本はサッカー日本代表の長友選手の「体幹トレーニング20」と言うものである。

 私は今まで一度もこうしたトレーニングや身体を鍛えるための本など買いたいとも思っていなかったが、ただ何気なしにこの本だけは気になってしょうがなかった。

 それは私が長友選手のファンでもあるかもしれないし、またいつからファンになったと言えば、ワールドカップ後の長友選手のインタビューで彼がそれまでの有り余る思いに言葉に詰まらせ、涙を流した時に、私もそれに思いっきり感情移入し、もらい泣きをした時からであろう。

 昨日とうとうこの本を手に入れることを決心してセブンイレブンに行った。

 するとレジには若い女の子がいて「あっ、、」と躊躇した。

 と言うのも、オジさんが何かを勘違いして身体を鍛えよう、それによって長友選手のようにカッコ良くなろうなどと意気込んでいるのではないかなど思われたら恥ずかしいと思ったのである。

 もちろん、それはただの思い込みであり、また他人からどう思われようと気にしたってしょうがないし、レジの子とは生涯それ以上会うこともないかも知れないし、そんな一冊を買った人のことなど覚えているはずもなく、そんな躊躇をする私をクスッと笑い、その本を探した。

 その本はいつも行っていたセブンイレブンとは違ったので端っこにある本棚に縦になって置いてあった。

 それもしっかりとビニールが巻いてあり、中を少し読んでみようと思ったが残念ながら出来なかった。

 本の裏表だけを読んだだけに過ぎなかったが、私がこの本を購入する、この本に何故か魅かれた意味の一文があった。

 それは「腰痛を解消したい」との一文である、これにより私の大義名分が成り立ったのであった。

 私はもとより腰痛が激しくずっと悩まされていた。

 仕事柄であろう腰痛はどうにも治まらず、いつもだましだまし仕事をしていたが、そんな私の身体を気にして、誰かが私をそこに導いたのであり縁を感じた。

 そして、覚悟を決めレジに向かえば、さっきの若い女の子ではない、男性がレジにいたのでちょっとホッとしたのであった。

 早速巻かれていたビニールを取り本を開くと長友選手も大学時代に腰椎分離症とヘルニアを患っていたとのことだった。

 私はそのことはまったく知らなかったが、もしかしたら、私のシックスセンスが働いていたのだろうか、この一冊は私の腰痛の克服のため、手にすべくしてあったように思えた。

 少し言いすぎかもしれない、少し笑ってしまうところかもしれないが本心この本に出会えて良かったと思ったのだ、またそう思えると分かりきらぬ人生も楽しく思えないだろうか。

 さてもう一つ知らなかったが長友選手は明治大学に通っていたのだった。

 何と私がこの本を購入したセブンイレブンは明治大学に一番近いセブンイレブンだった。

 
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謙虚な人。

2015-01-13 12:58:13 | Weblog

 昨日カルカッタ{現・コルカタ}のマザーハウスにダライラマが訪問した。

 マザーハウスの前のゲストハウスに住んでいる友人の中国人のボランティアがマザーハウスの前を歩いている写真をフェイスブックにアップしていた。

 私はそれをシェアさせてもらった。

 マザーハウスの前をダライラマは現総長のシスタープリマと名前は分からないがたぶんマザーハウスの院長か、カウンセラーの一人であるインド人シスターとに両手を引かれ歩いていた。

 私はその写真を見ながら思い出していた。

 ダライラマの言葉「マザー・テレサには、1988年、イギリスのオックスフォードで開かれた会議の帰り、デリー空港で会いましたが、彼女も私が深く尊敬してやまぬ人です。彼女の比類ない謙虚さに私は深く心を打たれました。仏教的言い方をすれば、彼女はまさに菩薩です」

 ダライラマはマザーのお墓を前にマザーに何を話したのだろうか。

 ダライラマはシスタープリマと何を話したのだろうか。

 とても興味深いところであるが、きっと平和についてだろうと、そして、フランスでのテロの犠牲者のために祈ったのではないかと思える。

 私は思う、謙虚さとは平和の種である。

 謙虚さは他者への思いやりと愛情がなければ存在しないものであるが、人間の本能の一部でも有り得よう。

 それは私たちのうちに居られる神さまがそうなんだと私にはマザーがずっと教えてくれていたように思えてならない。
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運命。

2015-01-12 12:58:20 | Weblog

 「またやっちゃったよ」と彼は苦笑いをしながら、私に近くに来た。

 以前にも何度も書いたことのあるカレーの列の一番最後に並ぶおじさんである。

 「どうしたんですか?名古屋の兄さんのところに行ってたんじゃないですか?」

 「いや、また絡まれてさ・・・」と両手の拳の傷をさすりながら彼は笑う。

 「やっぱり駄目なんだよ、オレはこういうことになっているんだよ。ちゃんと名古屋に帰ろうと荷物のカートもあったんだけど、横浜で飲んでいたら絡まれてケンカになって三日前まで留置所に居たんだよ」

 「あらあら、そうなんだ。じゃ、年末年始とずっと留置所に居たんですか?」

 「うん、46日間居たよ。クリスマスには鳥の足が一本出て、正月にはミカンが一個出たよ」

 「そうですか・・・、温かいお正月だったすね」と私が言うと冗談はもうやめてくれよと言わんばかりに彼は照れ笑った。

 話を聞けば、もう二年前の夏と同様に飲んでいた居酒屋で絡まれて、それでも最初はずっと我慢してたが殴り合いのケンカになってしまったとのことだった。

 相手は肋骨を折りまだ病院に入院中らしい。

 しかし、先にケンカを売ってきたのは相手で検事には「あなたも最初は随分我慢していたんだね」と慰められたようだ。

 相手は店の戸を閉める木の棒を取り出し、おじさんの背中なども殴ったらしい、「まだ背中は痛いんだよ」と言っていた。

 彼は不起訴に三日前になり、山谷に帰ってきた。

 「もうちょっと温かくなるまで入れていてくれたら良かったに」と相変わらず彼は冗談を言って笑う。

 「もう本当に気を付けてね。いつか死んじゃうよ」

 「うん、死んだら線香をあげてくれよ。ここに来なくなったら死んだと思ってくれ」

 「分かったよ。じゃ、そうなったら隅田川に線香を流すから」

 私がそう言い終わると彼は大笑いをした。

 そして「運命なんだ。オレはいつもこうなるんだ」とまた大笑いした。

 私には彼の運命などは分からない、そして、彼のほんの一部分しか知らない、彼も彼の運命など知る由もないはず、ならばその運命などは運命ではない筈である。

 彼には自責の念があるだろうが、そこにはやり直したい気持ちが疼いているからこそのそれだと言えよう。

 そして、私にそれをもしかしたら知ってほしかったのか。

 どうしようもない自分のことでも微笑みを持って接してくれる私を信頼してくれていたことも私には感じられる。

 嫌なことも笑い飛ばして微笑むことにより、彼は楽になりたかったかもしれない。

 「運命なんだ。オレはいつもこうなるんだ」と苦笑うしかない底にある苦しみをバカにしたり見捨てたり、どうして出来るのであろうか。

 彼は私である、そう思えて仕方がなかった。
 
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連帯。

2015-01-11 21:40:09 | Weblog

 今日は毎週日曜日に行く調布教会で知人の方にコーヒーを御馳走になった。

 お話があるとのことだった、それは私がマザーハウスでの洗礼を受けたことを調布教会の小雑誌に書かないかとのことだった。

 私はもちろん二つ返事了解した。

 私の頭の中にはずっと私にカテキズムを教えてくれたダニエルの言葉が生きている、それは教会の一員になること、コミュニティーとしての家族になることである。

 私には苦手なこの啓示であったがダニエルからの願いに私は「NO」とは言いたくない思いがずっとあった、それが私を動かしてくれたように思う。

 また私の洗礼のことはクロードアンヌの知人がカトリック新聞の記者が取材をするとのことだったが、それが流れ、またそれが形は違うが作り直されたのかなとも思っている。

 不思議な繋がりはやはりあるものなのだ。

 私に答えることが出来る限りのことは答えて行きたい、それはマザーが神さまに対して「NO」と言わなかったそれの数万分の一でも私は行いたいと誓うように思い続けているからである。
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心の事情。

2015-01-09 13:30:46 | Weblog

 新年の休み明けに仕事中交通事故を起こしてしまった。

 自転車との接触事故であったが、相手方は幸い打撲のみで済んだが、私としては一瞬にしてとても怖い思いをした。

 事故調書を警察署で終えてから、その日最後の仕事に向かった。

 そこで私の未だ強張っていただろう表情を見てその利用者に言われた。

 「なんか、お正月でたくさん食べて太った?」

 「えっ、そんなことはないと思うけど、鋭いですね、、、。実は今事故を起こしてしまったんですよ」

 私は利用者に個人的なことなど話すことはプロとして良くない、なるべく平然を装い、仕事をしようと思っていたが、長い付き合いになるその利用者にはやはり誤魔化したり、嘘を付いたりはせずに素直な思いであろうと決めて、甘いとは思いながらも事情を話した。

 私としてはまだ緊張と恐怖の思いにあったが、その利用者は私をこう励ましてくれた。

 「あなたがいつも誠実だから、普段の行いが良いから、そのくらいで済んだんだよ」

 「そうかな、そんなに良くないけど・・・」

 「そうじゃないよ、みんなね、あなたが来るのを待っているんだよ。楽しみにみんな待っているから、元気を出しなさい」

 「まぁ、そんなこと言ってくれて。嘘でも嬉しいよ。ありがとうございます」

 「嘘じゃないよ、ほんとうだよ。あなたが来るのを楽しみにみんな待っているんだからね」

 私はその利用者の「みんな」と言うのは投影だなと思いながらも、この場合は負ではなく正の投影であり有り難い、私を励ますために他の利用者など誰も知りもしないのであるが、「みんな」という言葉を選んだその心にはその利用者は本人の心を通して、その確信から「みんな」も同じだとの思いを描いたのだろうと私は深くその意味を味わうことにより、また胸を熱くした。

 やはり与えるのではなく、常に与えられているのであると言うことを感じずにはいられなかった。

 半身不随の患者であるが、何も出来ないのでは決してない、どんな状態であれ、その人は素晴らしい存在であり、フランクルの言う態度価値の可能性は消えるものではないことを改めて実体験する恵みを私は確かに頂いたのであった。

 もちろん、それからキューブラー・ロスの死の受容のプロセスの五段階と似た心情が私をまた苦悩の中に自然に引きずり込んで行くが、次の日に開いたフランクルの本の中には「苦悩であればあるほど、意味は深められていく」の一文を読み、その過程にある今に意味をまた見い出し、そこから問われていることに答えていく希望を授かった気がした。

 例えば、マザーの祈りを読み、私の十字架が重く感じられる時に、誰かの重荷を背負うことがこの今の私には出来るのであろうかなど、考えずにはいられなかったが、それはマザーからの励ましにも思えた。

 その夜、夢に微笑むマザーが現れた。

 またその朝には母親から交通安全のお守りをもらったことも、不思議な繋がりであり、それは常に誰かから守られている証拠とその必然を感じずにはいられなかった。

 書こうかどうか迷ったが、私は私の未熟さと弱さとに対面する必要があり、そこからでしか私は謙虚さを学べないと決意し書くに至った。

 どうぞ皆様、つつがない今日を、慈しみと感謝のうちにあるようにお祈りします。
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ポンコツ。

2015-01-06 12:43:07 | Weblog

 フランクルの「人間とは何か」を読み始めているが、私のこのポンコツな頭ではなかなか入ってこない、と言うか、きっと著者のフランクルの言いたいことであろう数パーセントしか理解していないだろうことが否応なしにそれだけは分かってしまうのである。

 しかし、そこから逃げてしまいたくはない、フランクルの根底に流れる意志への意味は確実に伝わっているのもまた嘘ではない。

 どのくらい私にはこの本を丁寧に読めるのかはまだ分からず、その可能性はまだ産声もあげていない、ただ難しいものへの安易な拒否反応に従うような弱さは負の連鎖の一部でしかなく、私をほんとうの意味で喜ばせるものではない。

 私にとって都合の良いものより都合の良くないものの方が生きる糧になる意味が深くあり、頭で考えるよりも身体を通し感じ考えていくようにして我慢強くこの本と向かい合いたい、私が生きている間に向き合える本には限りがあり、そして、その出会いには縁があり、その意味をどう正しく受け止めて、受け入れていくかは常に私の手中にある。

 それだけのことする価値はこの本には大いにあるのである。

 さて、今日もまたポンコツな頭で肩を凝らしてこの本に向かうのである。

 どこまでやれるのかはちょっと楽しみであるのと同時に私はその私を叱咤激励するであろう。
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新年会。

2015-01-05 15:29:56 | Weblog
 
 昨日は家で新年会をした。

 あんには夕方に「今日はお客さんが来るよ」と伝えると、「えっ!いつ来るの!いつ来るの!」と喜び、次に「まだ来ないの!まだ来ないの!」とがっかりとした感じになり、自慢の尻尾を下げ、哀しい時の声「ヒュ~ン」と言い、結局ずっと玄関に座り込み、お客さんを待ち続けた。

 しばらくそうしていて、まず岡さんが来るともう大喜び大はしゃぎで「ワン!ワン!」とウエルカムサインを発していた。

 新年と言うことで岡さんが日本酒を持ってきた、それがあまりに美味しかったので和田さんが少し遅れて来た時にはほとんどなくなっていた。

 随分飲んだ後に岡さんの友達が来た、しかし、その頃には良い調子になっていたので、私はいつものように寝たようだった。

 目覚めて、みんなを見送り、あんの散歩をし、ラーメンを食べに行って、すぐまた寝た。

 そして、夢を見た。

 政治の新しい会を作ると言う話だった。

 私はその会の名前を考えた。

 その名は感謝と反省の会と言う名前であった。

 みんなの党や幸せ何とかと言う名前ではなく、まず他者に現在に感謝し、常に悔い改める会こそ必要なんだと力説したようだった。

 朝目覚めて、その夢を解釈しながら、あんと散歩に行った。

 あんはすぐにウンチをした。

 三沢川の方に行き、帰る途中でまたあんはウンチをした。

 一度の散歩で二度ウンチをすることはあんにしては稀である、出てきたあんの二度目のウンチを見ると、そこにはピーナッツなどが入っていた。

 「はぁっはぁ~」あんは私が寝た後、みんなのスキをついて、テーブルの上の物を食べたんだと知った・・・。

 しかし、飲みすぎて寝てしまったことに反省し、そんな私であるにもかかわらず、長い間友達でいてくれる人たちがいることに感謝したのであった。

 夢はそういう解釈で当たっているのであろうと、あんのウンチを見て、しみじみ思った。

 それとカトリックとしての私が息吹だしていることにも関係があるのかも知れないと思ったのであった。
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山登り。

2015-01-03 19:06:22 | Weblog

 綺麗な朝だった。

 光線が神々しく美しく、空の青さも際立っていた。

 あんと近所の天神山の山登りに行った。

 あんは遊歩道をとっても楽しそうにそこら中をクンクンして歩いていた。

 この遊歩道の一番高いところには浅間山があり、その下にはちょっとの平地がある、あんはそこを走り回って遊んだ。

 私と言えば、その時、少しお腹の調子が悪く、危険な山を登っていたのであった。

 何とか家に着くなり、玄関にあんを置いて、一人一目散にトイレに直行した。

 危険な山を無事登り切ったのであった。

 
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明けましておめでとう!

2015-01-01 14:06:35 | Weblog

 雪だ!

 昨年はカルカッタに居たので雪を見なかったので、雪を見るのが私には嬉しい。

 積もってほしいところもあるが、仕事もあるし、そうなってほしくないのとあんと雪のなかを遊びたいのと半々な気持ちになりながらも、空に舞う雪に見惚れている。

 今日は仕事も元旦なのでやはりそんなに忙しくはないから、本を読める。

 なので、買ってからずっと読んでいなかったフランクルの「人間とは何か」を読み始めてみたいと思っている。

 年末に養老さんの本を読んでもやはりフランクルのことが出ていたので、ここはまた腰を据えてフランクルに向かいたい思いになった。

 昨日は河合隼雄氏の「人のこころはどこまでわかるか」を読み終えた。

 新書ではあったが、とても意味深い本であり、謙虚であることの意味を歳の終わりに改めて私に感じなおすことを与えてくれた素晴らしい本であった。

 今日は元旦。

 無事に歳を超えられたことが今日に感謝の意味を改めて受け継いでいく、しかし、今日に限らずそうした感謝の意味を感じることが出来るように日々を行きたいと願う今日である。

 私の大好きなタゴールの死と生を書いた詩を一つ。

 私はこの生涯に初めて足を踏みいれた刹那のことは何も知らなかった。

 真夜中の森のつぼみのように、私をこの広大な神秘のふところに咲かせてくれたのは何の力であったのか。
 
 朝になって光を仰ぎ見たとき、たちまち私は気がついた、私はこの世に来てよそ者ではなく、名も形もないあのふしぎな方が私の母となって私を抱き上げてくれたのだった。

 それと同じように、死ぬ時にも、その同じ見知らぬ方が、私の昔なじみとして姿を現してくれるだろう。そして、私は今の生命を愛しているのだから、きっと死をも同じように愛するようになるにちがいない。

 母が子供を右の乳房から離すと、子供は泣きだすが、ただちに左の乳房を含ませられて安心するのだ。
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