あなたは上記のIさんのことをどう思っただろうか。
私はこの日帰り際にブラザーノアスからマザーテレサのノヴェナ{九日間の祈り}と言う小雑誌を数枚もらった。
これはMCのマザーテレサの列聖会{Fr.ブライアンMC 編著}から出されている非売品である。
昨年のクリスマスにようやく日本ではドンボスコ社から出されたもの、片柳君の撮ったマザーの写真が使われていた。
その表紙にはマザーの言葉「イエスこそ、すべてにおけるすべて」とあった。
このマザーのノヴェナは昨年カルカッタから帰る時、最後のアドレーションに出た後にシスターメルシーマリアから英語版のものはもらっていた。
ブラザーノアスから日本語訳のマザーのノヴェナをもらった時、メルシーマリアが丁寧にこのマザーのノヴェナの使い方を説明してくれたあのカルカッタ最後の夜のことを鮮やかに思い出した。
山谷から地元の駅まで、これを二度読み直した。
そこにマザーが1983年にローマで入院していた時書き留めた、黙想があった。
「イエスはあなたにとってどのような方なのか?」と言う問いに対する答えの中でマザーはこう答えていた。
「・・・・イエスは癒されるべき、病む人。イエスは愛されるべき、孤独な人。イエスは受けいれられるべき、望まれない人。・・・・イエスは微笑みかけるべき、物乞いの人。イエスは話を聞いてあげるべき、酔っぱらい。イエスは守ってあげるべき、知的障害児。・・・・イエスは友であるべき、薬物依存者。・・・・イエスは訪れるべき、牢獄の人。イエスは世話をするべき、お年寄り・・・・」
マザーはしっかりと言っているのだった。
Iさんはあなたのイエスなのだと・・・・、いや、Iさんに限らず、私の出会う人たちはすべてイエスなのだと・・・・、だからこそ、あなたの中の最良のことをその人にしなさいと言い続けたのである。
だが、私を含め、多くの人がマザーを慕いながらもマザーの本意とのズレがあるように思えてならない。
しかし、このズレと対面することにより、マザーはまたこうも言っていたことを思い出すことによって救われる「あなたの抱えている苦しみをすべてイエスの足元に捧げなさい。あとのことはすべてイエスがしてくださいます」と。
私たちは祈り悔い改めることにより救われていくのである。
柔和になることにより、そう努めることにより、また誰かを救っていけるのである。
その可能性を持たない者はいない。
あなたの「小さなことに大きな愛を込めて」の行いがマザーと神さまを喜ばすに違いないのである。
私はそう確信し、その確信によって微笑みを持つ。
最後にもう一つマザーの言葉。
「私たちは成功するために呼ばれたのではありません。信じるために呼ばれたのです」