ボランティアのOさんがとても申し訳なそうな顔をして、私に近づいてきて、こう言った。
「先週はほんとうにすいませんでした。とても大事な話しをしているところで話してしまって・・・、でも、あの子にも話したいことがたくさんあって・・・。すいませんでした・・・」
私は驚いた、と言うのは、Oさんがそのように思っていてくれたことや、私のなかでのそれはもう忘れ去れていたからです。
それとは一週間前のダニエルとの最後の分かち合いの時のことである。
私はMちゃんと連れて、イタリアに帰郷する忙しいダニエルに時間をもらい、私の洗礼のことやダニエルのMC入会までのことなどを分かち合いする場に誘った。
それまで一緒にMCの施設二階でお茶を飲んでいたOさんも加わり、4人で行われた。
しっかりと二人に分かち合いの説明をしていなかった私が良くなかったのだが、私とダニエルが大事な話しをしていることころで、二人はその話しに加わらず、まったく違った話しをその場でし続けたのである。
私はその時確かに気がかりであった。
これはもしかするとダニエルと私の人生のなかで最後の分かち合いになるかもしれないかけがえのない時間だった、それなのに隣で関係のない話しを二人はしていた。
途中二人に話しを辞めてもらおうとも思ったが、ダニエルはいっこうに構いなしに私と会話をし続けてくれた。
私は私のなかの心のブレを消そうとダニエルの顔をマジマジと見詰めなおした。
そのうち、Mちゃんの話しも落ち着いたのか、私たちが大事な話しをしていることに気が付いたのかは分からないが、私たちの話しに感心を持ち始め、最後にはダニエルの話しをノートにメモまで取るようになってくれた。
それで私はこの気がかりを忘れていた。
そして、私はこの気がかりから、新たな学びを得た。
それは自分の命をも他人に捧げるイエスの愛の教えが私にないことである。
ダニエルとの最後の大切な分かち合いであれ、もしMちゃんの心に何か話したいことがあるのであれば、私は喜んでその時間を捧げなくてはならなかったはずであり、また心に気がかりを作り出していた。
なぜ私が気がかりを作り出しかといえば、それは私に柔和な心が貧しいからである。
如何なる時も自分を棄てて生きると言うことを、私はダニエルとの最後の分かち合いのなかで神さまはそれをさとすがために二人をその場に授けてくれたように有り難く思っている。
またOさんの優しさにも敬服した。
ダニエルとの最後の分かち合いも素晴らしいものであった。
だが、このダニエルとの分かち合いに終わりはない、私の命が尽きるまで続くであろう。
遠くはなれ逢えなくても、祈りのうちに。
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