もう辺りには誰も見えなくなってきていた。
炊き出しを食べ終えたおじさんたちは蜘蛛の子を散らしたようにあっと言う間にどこかに去っていく、動く気力もなく、行く当てのないものだけがぽつりぽつりとうなだれるように腰を降ろし背中を丸めている、有り余る時間だけが重く、ただ万人に平等にゆっくりと流れている。
私はそろそろ帰ろうと思い歩き出した。
すると、向こうから60代と思われる小さなおじさんがゆっくりと杖をつきながら歩いてきた。
「ありがとう!あとでゆっくりと食べるよ」人懐っこい笑顔を見せた彼は服の内側に入れたカレーを大事に抱えていた。
「オレ、逆流性でさ」胸から喉に掛けて手を当てて、「ちょっとずつしか食べれないんだよ。すぐに気持ち悪くなっちゃうからね」
「そうか逆流性食道炎、それじゃ辛いね、あとでゆっくりと食べて」
「オレ、八年ぶりにここの炊き出しに来たんだよ」
「そうなんだ、そんなに久しぶりに。今までどうしたの?」
彼は苦笑い、胸に手を当て、「これでずっと入退院を繰り返していたよ」
「そうか、それで今はアオカンなの?」アオカンとは路上で寝起きすることを言う。
「うん、アオカンだよ」
「それじゃ、もう寒くなってきたし辛いでしょ?福祉とか受けないの?」
「うん・・・、受けていたけど。酒でね」少し顔を引きつらせ、彼自身分かりきっているような愚かな自分を笑うような顔をした。
「そうか・・・」誰もが思うようにそうは生きられぬものである、その重みを会話の間に置いた。
「でも、これから寒くなるからね。辛くなったら考えよう。薬はちゃんと飲んでいるの?」
「うん、薬はちゃんと飲んでいる。病院だけは大丈夫」
「うん、良かった」
彼は路上生活者のような姿はまだしていなかった、髭もしっかり剃っていた、もしかしたら、どこかの施設に入っているのかも知れないと思ったが、そんな私の思い込みはこの瞬間に聞く必要はないとも同時に感じた。
人には知られたくないものもあるのだし、言いたくないものまで言わしては罪作りなるだけである。
彼はただ八年ぶりと言う、その時の流れを思い返して、また戻ってきてしまった言いのようのない嘆き、そうしてしか生きざるを得なかった人生を誰かに語ることにより、心のうちでどうにか噛み砕き納得しようとしていたように思えた。
アルミ集めも何もしていない彼は生保を切られてからも、入院時に貯めていたお金でどうにか今まで炊き出しの世話にならなくても済んでいたのだが、そのお金も残り少なくなったのだろう、炊き出しに顔を出すようになった。
今はもう酒も止め、体調も良くなり、夜もよく寝れるようになったと笑いながら話していた。
あなたにはこの言葉の奥が分かるだろうか。
この言葉の奥には、体調が悪くても酒を飲まずに居られない、そうせねば生きれない破壊的な苦しみがあり、良くないことは百も承知ながら酒がなくては眠れない闇の泥沼のなかに自ら飛び込むような日々しか生きれなかったのかも知れないのである。
病気が彼を生き直させたのである、かと言って、到底幸せとは言えないかもしれない、にもかかわらず、彼は健気に生きようとしているのだ。
私の心はそれにふるえた。
そんなところに愛を注がなくて何を注ぐのであろうか、私の胸が痛んだ。
彼の痛みの万分の一に満たない痛みであろうが、私のうちにそれが移った。
「じゃ、また来週も来てね」
「うん、ありがとう」彼はまた人懐っこい笑顔を見せた。
小さな彼は杖をつき、ゆっくりと歩いていった。
その歩幅の狭さに私は目を放すことが難しかった。