いつも私の駄文のブログを読んでくれていてありがとう。
私が洗礼を受けるために二十年の歳月が必要だったと言うことは、この私の二十年を愛していると言うことにも置き換えられるだろう。
良いこともあれば、そうでないこともあったこの私の人生を満足している、受け容れられると言うことでだろう。
それはあなたの心理士になるための十年もそうであったように、振り返れば、微笑ましくするすら思えるのではないだろうか。
心理士に信仰がないと思われているようだが、そんなことはないと私は思っている。
心理士はきっと患者のなかの治癒力、魂を信じているだろうからね、もし、それを信じられるずに居るのではあれば、そこに何の意味を見出すのであろうか。
キリスト教を信じる私ではあるが、実は誰のなかにも信仰性なるものはある、それはあなたも感じるだろう、人間のうちには神さまを信じる心を育んできた歴史、神さまとともに生きてきた感謝の心が血液のなかにも流れているだろう。
だから、私たちは誰もが手を合わせ祈ることを行っているのです。
心理士にかかわらず、良い教師は生徒のそれを信じているだろうし、良い医師も患者の治癒力を信じているだろうし、良い親は子供のそれを信じているだろうし、また良い庭師は植物のそれを信じているだろうし、そのほかにもまだたくさんあるだろう、こうした人間だけではない対象まで私たちは信じている、空や太陽や風、雨、月、星などもそうであろう、こうした信じると言うことのなかに神さまの存在を私たちは忘れがちに成りやすいが、しかし、それは私たちにすでに備わり組み込まれている。
ただ肯定的な思考と態度が必要である、それを持つ者はすでに平和の道具となり、周りのものを明るく照らし元気させることが出来るだろう。
それを出来る人はその人自身だけで、それが出来るのだろうか、そこに神さまの光りを感じないだろうか。
私たちは見えないものに包まれて生きている、見えないからこそ信じることを深め生きている、ユング派のあなたなら、きっとそれを感じられるでしょう。
私はずっと楽しみにしている、もし、私が元気がなくなる時があれば、私をみてほしい、そんな期待をしているんです。
そこも布置され、またどこかで布置され、と言う感じで、私たちには偶然はなく、必然である、また必然であると言うことを悲観したいものもあるだろうが、しかし、信仰性とはそれを肯定的に捉えていく様にある。
どうしようもないことも私たちの人生には起きるだろう、その時こそ、すべてを神さまに委ねることを強く感じるだろう、その時こそ、道端に咲く小さな花や木々に教えを乞うように健気に生きる素朴さを学ぶであろう、そう、すべては大きなものに包まれいる。
昨日文化学院の講師している時がテーマの遠藤周作氏の「さらば、夏の光りよ」を読んだよ。
読んでいるだけであの校舎のこと、あの文化の学生だった時のことが色鮮やかに思い出されたよ。
このことは後日またブログで書きたい。
シミズ君、まだ読んでいないのでは、それは楽しみが一つ増えたことだよ。
またゆっくりと語り合おう。
文化学院の残党として。