今マザーハウスでの洗礼の許可をもらい、ほっとしている。
と同時に私は93年に初めてマザー会った時からのことや、それからのカルカッタや山谷でのボランティアの二十数年になる日々を思い返している。
それはあまりにもいろいろなことがあった、容易には私は私のその時々の心たちを捜しようにも捜せないようにも思えるが、眩しくて目を瞑らなくては見れないような光りがそこに現れていたことにも気が付くのである。
そんなことを胸のうちに内省している。
私は人間を捕る漁師となったマザーの網の目にずっと捕まっていたのかもしれないと思ったりするのである、ただ私にはその愛の網が良く見えてなく、また怖かったのかもしれない。
私は幾度もキリスト教徒から無理やりに押し付けられたキリスト教から逃げたり批判したり拒絶もした、だが、それはその人を拒絶しただけ、私のなかの影をその人のなかに移したものに拒絶しただけであった。
私はそれにやっと気が付いたのである。
ほんとうの意味でのマザーの愛、イエスの愛を知ろうとはしなかっただけであった。
ほんとうの意味でのそれと言うのは、体験体感を通して、深く知ると言うことである。
いったんそれを知り、感じるようになるともう拭い去ることなどは出来ないようになっていた。
{つづく}
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