やはり、何が決め手で何があったからと言うような唯一の確信が突如光りのように差し込んできて、私が洗礼を受けたいと思うようになったのではないような気がする。
それは私自身の心の成熟とともにゆっくりと育まれ、気が付くとあたたかな陽射しに包まれていくような感覚とでも言ったら良いのだろうか。
否定したことも、自我張っていたことも、悩んだことも、その一つひとつの小さな粒のようなもの集まりが結晶となり、洗礼と言うと形で現れたようなものである。
すべてが私には必要だった。
長い年月が私には必要だった。
そこに神さまの柔和な愛情、決して見捨てることのない愛情を学び知り感じるようになったのだ。
それを知るために、それを向かい入れるために、私は私の弱さ、愚かさを十二分に知る必要もあった。
そして、それは今でもこれからも知りきることはないのだが、見守られている優しさのなかで私は芽吹くような息遣いで成長をしていく。
過ちや失敗を正々堂々と受け容れていけるのである。
すると、私のなかの神さまが活き活きしてくる。
マザーの「最良のものを」の祈りの最後がほんとうに身に沁みるのである。
「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
あなたと他の人の間であったことは一度もなかったのです」
すべては神さまと私の間のことと言うそれは、行いを通してこそのみの深い信仰から生まれるこの深い意味が地面が水を吸い込んでいくように私のすべてに染み渡って、今もいくのである。
もちろん、偉そうなことを口走る私は何ら一つも変わっていないような部分もちゃんとある、未だ愚かな者である、にもかかわらず、見守られていると言う愛を感じようになり始めたのである。
洗礼を受ける決心には二十年以上掛かってしまったが、ただそこには間違えなく絶えはなくマザーの導きだけは確かにあったように思えてならない。
そして、そのマザーの愛は神さまの愛であることを深く知り感じるようになり始めたのである。