とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」715 優しい悪魔 キャンディーズ 歌詞 /フル バージョン

2021-05-04 01:22:52 | 日記
当時としては衝撃的なデビューだったと思います。今、改めて視てもなかなか刺激的ですね。3人がプラスされて一つの形になるというより、3人がそれぞれ素晴らしい独立した世界を持っていて、しかも、それがより大きな世界を作り出す、掛け算の世界を現出させるという感じの、今までにないスケールの大きいグループでした。

優しい悪魔 キャンディーズ 歌詞 /フル バージョン


キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本の女性3人組のアイドルグループである。所属事務所は渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版の社員だった松崎澄夫(元・アミューズソフトエンタテインメント代表取締役社長)のプロデュースによるものであった。


略歴

デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。最終選抜で3人が選ばれたが、当時のスクールメイツには3人以外に太田裕美やザ・ヴィーナスのボーカルであったコニーもいた。

1972年(昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。

3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし、『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいる」と目を留めた。松崎が担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。

1973年(昭和48年)に「あなたに夢中」で歌手デビュー。またデビュー前から人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、3人の内で最年少ながら、当時最も歌唱力が高かった田中が起用された。

人気歌手へ

だが当時のマネージャーである諸岡義明が、3人の中で伊藤だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、1975年(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「年下の男の子」で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターの伊藤をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又オリコンでも初のベストテン入りを果たした。

翌1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得。その後1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばす。それ以降のシングルでは、「わな」が藤村のセンターである以外、全て伊藤がセンターを務めた。その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ!全員集合』や、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。

キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、田中と増田恵子などはとても仲がよかった。

セールスの勢いは7枚連続1位、5枚連続ミリオンセラーなどで、怪物とまで呼ばれたピンクレディーには及ばなかったものの、大手プロダクション所属の強みもあって、バラエティへの対応力など、活動の柔軟性、多彩さではリード、中高生や大学生を中心とするファン層の熱心さもあって、両グループは対照的な形で70年代末のアイドルシーンを牽引した。

人気絶頂時の解散

しかし1977年(昭和52年)の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、3人は涙を流しながら、伊藤が「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」、藤村が「ごめんなさい」、田中が「許してください」と、それぞれファンに対して謝罪。それから「私たち、今度の9月で解散します」と突然の解散宣言。そのとき伊藤が泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!」は非常に有名になり、当時流行語にもなっている。

翌日の7月18日午後、キャンディーズは銀座メイツにおいて緊急記者会見を行い、また同日夜にはフジテレビ系列『夜のヒットスタジオ』へ生出演の際、改めて陳謝する。当初3人は、2か月後の同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に渡辺プロの正式な了承を得ずに発表したこともあり、渡辺プロからの説得と話し合いの末、解散はその後約半年間先送りされることになった。

この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では、最初で最後のオリコン1位を獲得する。それまでのシングルが1位を獲得したことが無かったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった。キャンディーズは解散によって、さらに人気を盛り上げたと言える。

1978年(昭和53年)4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め、マスコミが「歌謡界史上最大のショー」と呼び、日本でも『ザ・ピーナッツ さよなら公演』以来2例目となるお別れコンサート(『ファイナルカーニバル』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。 センター寄りの観客席からはセカンドベース後方に設置された舞台の様子が見えず、26インチ程の街頭テレビが幾台か設置され、観客はそれを見つつ公演を堪能した。 なお、後楽園球場でコンサートを開いたのは女性歌手(グループ)において、キャンディーズがはじめてである。

この模様は収録され、3日後の4月7日にTBSテレビ系列により全国に録画でテレビ放送され、平均視聴率32.3%(関東地区)という、単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の高視聴率を獲得している。最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした!!」の口上も有名。コンサートの最後に歌われた「つばさ」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として伊藤が作詞したものである。歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。

なお、解散直後もTBSテレビ『ザ・ベストテン』内では「微笑がえし」が引き続きランクインしたため、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがテレビ出演をしたことがある。(「Wikipedia」より)