とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 714 春日八郎 別れの一本杉 1974

2021-05-01 17:57:06 | 日記
これです、これです。昭和はこれです。このメロディーが頭の中に刷り込まれています。鋼の高音。春日さんの独壇場ですね。

春日八郎 別れの一本杉 1974



春日 八郎(かすが はちろう、本名:渡部 実 (わたなべ みのる)、1924年10月9日 - 1991年10月22日)は、福島県河沼郡会津坂下町塔寺出身の演歌歌手。『赤いランプの終列車』『お富さん』『別れの一本杉』などが有名である。



演歌歌手の第一人者

1952年春に恵子の妊娠が判明し、家族のために歌の道をあきらめて新聞社に就職しようとするが、履歴書を見た恵子に「歌をやめたあなたなんて、魅力もなにもないわ」と猛反対されて撤回。8月に恵子の熱意と本人の努力に心を打たれた師、江口が、春日のために新曲『赤いランプの終列車』を作曲した。

自宅でテープに吹き込み、キングレコードに改めて春日を推薦する。闇屋の経歴、過去の女性関係が問題視されるなど、紆余曲折を経てなんとかレコード化、11月に発売。江口曰く、「キングレコードはこの曲を序列では10枚の一番最後としていた位であまり高く取ってはいなかった」。当時の春日の声、唱法は岡と相当に似ていたらしく、改名するにあたっての名付親は作詞家の藤間哲郎であった。たまたま岡宅に祀られている春日大明神の神棚を目にしたことから、「岡さん以上の歌手になれという意味を含めて」春日とし、末広がりの八の字を「運が開くよう」にと名に入れた。1953年に『赤いランプの終列車』が名古屋から売れ出し、やがて全国的な50万枚の大ヒットになる。三門の前座歌手を卒業し、秋からは当時大人気の先輩歌手であった岡の前座を務めるようになり、生活のメドがようやく立つ。この年の吹き込みは中ヒットとなった『街の燈台』『雨降る街角』を含む12曲で、青木光一・三浦洸一と並ぶ歌謡界の若手三羽烏として注目を集めはじめる。名古屋からヒットしたのは大須のレコード屋の主人が、なかなか面白い歌手であると気に入って宣伝し出したのがきっかけで、この主人は女性で、手書きのポップまで作って宣伝してくれたとある。

1954年8月には移籍した岡の代打で歌舞伎狂言『与話情浮名横櫛』に登場する、お富さんと切られの与三郎の掛け合いを歌にした『お富さん』を吹き込む。諸事情から練習時間は僅か1時間であったらしいが、発売3か月で30万枚、最終的には125万枚を売り上げる空前の大ヒットとなる。同年末の第5回NHK紅白歌合戦に初出場を果たした、子供たちまでが意味も知らぬまま「いきなくろべえみこしのまつに」と口ずさむなど、社会現象化。一躍人気スターの仲間入りをする。当初は代打として若原一郎が想定されていた。

この頃春日はラジオ番組で「お富さんなんかきらいだ、吹き込みたくなかった」という意味の失言をしてしまい社内に物議を醸し、四方に陳謝してようやく一件落着となる。年が明けて1955年も続く『お富さん』ブームの中、「俺とは本来は違うもの」を歌っているという思いは消えず、周囲の「一曲が大ヒットし過ぎるとあとが続かない」「『お富さん』の消えるときが春日八郎の消えるとき」等々の声にも悩まされる日が続く。11月に『別れの一本杉』を発売。望郷演歌の嚆矢ともいえるこの歌は、1年半ぶりに60万枚の大ヒット、まだ売り出し中の船村徹を有名にさせた作品にもなった。

それまでの流行歌とは質の異なる望郷歌謡をたて続けにヒットさせ、流行歌の衰退期において「演歌」という新天地を築いた。春日も歌手としての揺るぎない地位を確立し、『別れの一本杉』は生涯の代表曲の一つとなる。この年には「平凡」の人気投票男性歌手部門に初登場し、いきなり2位以下(小畑、田端義夫、津村、岡、藤山)に大差を付けて第1位に輝く。『別れの一本杉』はキング社内の廊下で、一面識もなかった船村に呼び止められ、是非にと乞われてギター伴奏で聞いた3曲のうちの1曲で、即座に「歌わせてくれませんか」との流れになる。三橋美智也とのカップリング・レコードの企画が持ち上がりはしたものの、決まったのは三橋の曲『君は海鳥渡り鳥』のみで、春日の曲が難航。お蔵入りのものの中から「企画とは別の流れですでにレコーディングを済ませてあった」この曲が浮上し、10月20日に再吹き込みとなった。当初のタイトルは『泣けたっけ』であったが、掛川尚雄ディレクターが「歌詞も含めて『泣けた』が多過ぎる」と現在のものに変更。この年は多忙な生活からくるストレスの発散と健康維持のためと、歌謡界での馬主のはしりであった岡の影響から馬主になる。1967年には、個人事務所として春日プロモーション(現:春日プロ)を創立した。
(「Wikipedia」より)