とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 170 伊藤みどり 伝説のFS(1989年世界フィギュアスケート選手権) Midori Ito.wmv

2017-05-25 01:35:10 | 日記
まさにこれぞ伝説のフィギュアスケーター。伊藤みどり。彼女は永遠に語り継がれることでしょう。

伊藤みどり 伝説のFS(1989年世界フィギュアスケート選手権) Midori Ito.wmv


伊藤 みどり(いとう みどり、1969年8月13日 - )は、日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)。愛知県名古屋市出身。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業。

1992年アルベールビルオリンピック女子シングル銀メダリスト。1989年世界選手権優勝。1988年カルガリーオリンピック5位入賞。1985年から1992年まで全日本選手権8連覇。女子選手として世界初の3回転アクセルや3回転-3回転連続ジャンプに成功した。

1989年に「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載[2]。2004年には、日本人として初めて世界フィギュアスケート殿堂入り。2007年、国際スケート連盟 (ISU) は「伊藤はたった一人の力で女子フィギュアスケートを21世紀へと導いた」との声明を発表した。

3回転アクセルを跳ぼうと意識したのは中学1年のころで、初めて練習で跳んだのは中学3年のシーズンであった。練習を始めてから3ヶ月ほどの6月8日に着氷に成功していたが、競技会では成功しなかった。1985年世界選手権の直前に右足首を骨折したため、それ以来練習を中断していた。ところが、カルガリーオリンピック後のエキシビションツアーで男子選手が3回転アクセルを跳ぶ姿を見て、再挑戦を決意し、3回転アクセルの練習を再開した。1988-1989シーズンの愛知県フリー選手権で3回転アクセルに挑戦し、競技会では初めての成功を収めた[91]。国際大会では1988年NHK杯で成功した。

その後、伊藤のほかに国際大会で3回転アクセルを成功させた女子選手は、トーニャ・ハーディング(1991年世界選手権)、中野友加里、リュドミラ・ネリディナ(2002年スケートアメリカ)、浅田真央(2004年ジュニアグランプリファイナル)、エリザベータ・トゥクタミシェワ(2015年世界選手権)、紀平梨花(2016年ジュニアグランプリリュブリャナ杯)の6選手だけに留まっており、オリンピックで3回転アクセルを成功させた女子選手も伊藤のほかには2010年バンクーバーオリンピック、2014年ソチオリンピックでの浅田真央のみである。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 169 オリンピック100人の伝説 東洋の魔女 女子バレーボールチーム

2017-05-24 00:28:11 | 日記
この試合は女子チーム・プレーの原点に燦然と輝いています。何度見ても興奮します。

オリンピック100人の伝説 東洋の魔女 女子バレーボールチーム


東洋の魔女(とうようのまじょ)は、1961年の欧州遠征で22連勝した日紡貝塚女子バレーボールチーム(監督:大松博文)につけられたニックネーム。
1964年東京五輪では同チームのメンバーを主体とした全日本で出場し、5試合で落としたセットは1セットのみという圧倒的な力で金メダルを獲得した。ソ連との優勝決定戦では視聴率66.8%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)を記録し、スポーツ中継としては歴代最高となっている。

1964年東京五輪

1962年世界選手権後、優勝の褒美に世界一周旅行を行い、結婚適齢期を迎えたことから選手達と大松監督は引退を表明していた。

しかし1964年の東京五輪から女子バレーボールが正式種目に入ることが決定したことから、『是非東京オリンピックまで続けて欲しい』と、日本バレーボール協会幹部が日紡貝塚へ日参したり、一般ファンからも大松率いる東洋の魔女続投を望む手紙が5,000通に亘って大松博文へ宛てて送られるなどして東京五輪へ向けて周囲の声が高まったことなどを受け、東京オリンピックまでが2年であることでキャプテン河西が決断し、大松監督の「俺についてこい」の一言で、選手達はオリンピックまで続けることを決意した。この後のオリンピックまでの2年間は、選手は午前中社業に従事し、15:00から26:00まで練習。大松は16:00まで社業でその後練習に合流するというハードな日々をおくったという。

1964年10月23日、東京五輪のソ連との全勝同士の対決では、日本が順調に2セットを連取した。3セット目も試合を優位に進めたが、14対9のマッチポイントを握った場面からソ連の粘りが続いた。テレビ放送にて決勝戦実況中継担当アナウンサーであった鈴木文彌が「金メダルポイント」のセリフを6度も繰り返すこととなった。最後はソ連の選手のオーバーネットによる反則により金メダルを獲得した。出場選手は以下の12名である。

河西昌枝、宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯辺サタ、松村勝美、篠崎洋子、佐々木節子、藤本佑子(以上、日紡貝塚)、近藤雅子(倉紡倉敷)、渋木綾乃(ヤシカ)

(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 168 Nadia Comaneci - First Perfect 10 | Montreal 1976 Olympics

2017-05-23 04:29:50 | 日記
体操界に於いてこんなにすべての面で完璧な選手はもう出て来ないだろうと思います。演技というより妖精が楽しく美しく飛び跳ねているような印象です。・・・神ってる !!!

Nadia Comaneci - First Perfect 10 | Montreal 1976 Olympics


ナディア・エレーナ・コマネチ(Nadia Elena Comăneci ルーマニア語発音: [ˈnadi.a koməˈnet͡ʃʲ] ( 聞く):1961年11月12日 - )はルーマニアの体操選手。1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得した。またこの大会で体操競技選手としてオリンピックの舞台で初めて10点満点を獲得した。1980年のモスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得した。彼女はオルガ・コルブトと並び世界中で最も知られた体操競技選手となり競技の人気を高めた。

モントリオールオリンピックでの活躍まで

コマネチは、ルーマニアのゲオルゲ・ゲオルギュ=デジ市(現在のバカウ県オネシュティ)で、ゲオルゲとシュテファニア=アレキサンドリナ夫妻の下に生まれた。ナディアという名前は、あるロシアの映画のヒロインである、ナジェージュダ(Nadezhda, ロシア語:Надежда, 「希望」という意味、愛称はNadia (Надя))にちなんだものである。
6歳の時に名コーチベラ・カロリーに見出され、英才教育を受けた。1969年には国内選手権で13位に入った。

9歳でルーマニアのジュニア選手権を制覇し、1971年には初の国際大会となるユーゴスラビアチームとの大会に出場し団体と個人総合で優勝を果たした。1975年にノルウェーのシーエンで行われたヨーロッパ体操選手権で種目別のゆかで銀メダルとなったのを除き個人総合、種目別全てで金メダルを獲得するなど、幼いときから数々のタイトルを獲得してきた。プレオリンピック大会としてモントリオールで開かれた大会で彼女は個人総合と平均台で金メダル、跳馬、ゆか、段違い平行棒ではネリー・キムに次いで銀メダルとなった。1976年3月にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで行われたアメリカンカップの跳馬で10点満点を出し、日本で行われた中日カップでも跳馬と段違い平行棒で10点満点を出した。

同年14歳で参加したモントリオールオリンピックで、段違い平行棒と平均台の演技で近代オリンピック史上初めての10点満点を出し、個人総合と併せて金メダル3個、団体で銀メダル、ゆかで銅メダルを獲得した。この時オリンピックを運営するIOCや審判団は体操競技で実際に満点が出ることを想定していなかったため(当時は9.99までしか採点掲示板に表示できなかった)、掲示板には1.00点と表示された。彼女は個人総合で優勝した初のルーマニア選手となると共に史上最年少での個人総合優勝を果たした(当時は14歳以上でオリンピックに出場できたが現在オリンピックに出場するには16歳以上でなければいけないので今後もこの記録が破られる可能性は低い。)。純白のレオタードが似合う可憐な容姿や見事な技が観衆を魅了し、「白い妖精」と呼ばれた。

帰国した彼女はニコラエ・チャウシェスク大統領から勲章をもらった。
米ABCのモントリオールオリンピック中継でコマネチが登場する際に使われた『妖精コマネチのテーマ』(バリー・デ・ヴォーゾン&ペリー・ボトキン・ジュニア)がヒットした。元々この曲は五輪やコマネチのために書かれたものではなく、1971年に公開された映画『動物と子供たちの詩』(Bless the Beasts and Children)のサウンドトラック『Bless the Beasts and Children』に収録されていた楽曲(本来のタイトルは「Cotton's Dream」)でありアメリカの昼ドラ、ヤング・アンド・ザ・レストレスのテーマソングにも使われていた。彼女がこの曲を使って演技することはなかった[12]。彼女がゆかの演技で使用した曲はYes Sir, That's My BabyとJump In The Lineをピアノにアレンジしたものであった。

彼女はUPI通信社が選ぶ年間最優秀女子スポーツ選手に1975年、1976年と2年連続で選出されている[13]。またAP通信社が選ぶ最優秀女子スポーツ選手にも1976年選出された。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 167 東レPPOテニス 1995年 伊達公子初優勝

2017-05-21 06:16:30 | 日記
スポーツはテニスとバレーボールしか見ないというAkiraは伊達公子という名前と錦織圭という名前は終生忘れることはできません。特に伊達公子の活躍は日本人に勇気と元気を与えました。感謝しています。

東レPPOテニス 1995年 伊達公子初優勝


伊達公子(だて きみこ、Kimiko Date、1970年9月28日 - )は、日本の女子プロテニス選手。京都府京都市上京区出身。WTAランキング自己最高位はシングルス4位(現行システムでの日本人最高位タイ)、ダブルス28位。WTAツアー通算でシングルス8勝(日本人歴代2位記録)、ダブルス6勝を挙げている。

アジア出身の女子テニス選手として、史上初めてシングルス世界ランクトップ10入り、日本人21年ぶりのグランドスラムシングルスベスト4、日本人女子初の全仏オープンシングルスベスト4・ウィンブルドンシングルスベスト4進出者。現在日本人女子最後の4大大会シングルスベスト4進出者である。

4大大会で女子シングルス準決勝に3回・ベスト8入り6回は共に日本女子選手歴代最多記録。すべての4大大会でベスト8入りした最初の日本人女性でもある。

現在女子世界ランク100位内選手の中でも最年長選手であり、2番目に年長のビーナス・ウィリアムズより10歳年上である。全豪オープン勝利(オープン化以降)・ウィンブルドン3回戦進出の最年長記録、WTAツアーシングルス優勝・全仏オープン勝利の歴代2位の年長記録を保持している。2010年10月にWTA史上初の40歳以上でトップ10の選手に勝利を記録した。


「ライジング・ショット」の名手として、世界的にも有名な選手である。これは、相手の打ったボールが自分のコートでバウンドした直後の上がり端を打ち返す、非常に高度な技術である。世界トップ選手へと躍進し始めた頃の伊達は、“ライジング・サン”(日の出)と呼ばれた。


2008年の現役復帰後の所属はエステティックTBC。
本来は左利きであるが、子供の頃に日本の習慣に従って右利きに直された。そのため、テニスの試合でも相手選手がバックサイド(左側)に打ってきたボールを左打ちする場面がしばしば見られた。日常生活でも、サインの時などに左手を用いることがある。
大津市立瀬田南小学校-大津市立瀬田中学校(在校時バレーボール部)-園田学園高等学校卒業。

2001年にドイツ人レーシングドライバーのミハエル・クルムと結婚。結婚当初は「クルム公子」としたが、家庭裁判所での姓の変更を経て「クルム伊達公子」となった(国際結婚であるため夫婦別姓が可能)。2016年9月26日にミハエル・クルムとの離婚を発表。

現役復帰

2008年、東京有明国際女子オープンに優勝し、トロフィーを受け取るクルム伊達公子
2008年4月6日、現役復帰を決意したことが報じられる。4月7日に復帰記者会見を行い、12年ぶりにツアープレーヤーとして再びコートに立つことを表明する。37歳にしてプロ復帰した理由を「世界と戦うためではなく、若い選手へ刺激を与えるため」と語り、現本名の「クルム伊達公子」でプロ登録した。

同年4月27日、岐阜市の岐阜メモリアルセンターにある「長良川テニスプラザ」で開催された「カンガルーカップ国際女子オープン」のシングルス予選で現役復帰する。3戦全勝で予選を突破し、本戦1回戦では藤原里華、準々決勝では中村藍子を破り、決勝まで勝ち進んだが、タマリネ・タナスガーン(タイ)に敗れて準優勝に終わった。15歳のジュニア選手・奈良くるみと組んだダブルス決勝では、ニコル・タイセン(オランダ) & メラニー・サウス(イギリス)組を破って優勝した。

同年6月15日、東京有明国際女子オープンシングルス決勝で、主催者推薦で出場の18歳秋田史帆を 6-3, 6-2 で破り、シングルスでのプロ復帰後初優勝を果たした。同年7月12日、日本サッカー協会(JFA)理事に就任する。これはJFAの犬飼基昭会長(当時)の推薦によるもので、平尾誠二(神戸製鋼コベルコスティーラーズ総監督兼任ゼネラルマネージャー)とともにサッカー以外のスポーツ界からは初のJFA理事となった(2010年7月退任)。

11月には全日本テニス選手権に出場、女子シングルス決勝で瀬間友里加(ピーチ・ジョン)を破って16年ぶり3度目の優勝を飾る。38歳での優勝は、宮城黎子が1963年に41歳で優勝し、大会8連覇を達成した時に次ぐ年長記録である。また藤原里華と臨んだダブルスでも決勝で米村明子&米村知子組を破って17年ぶり2回目(藤原は6年ぶり3度目)の優勝を飾り、吉田友佳以来5年ぶりの単複2冠の達成者となった。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 166 カルメン・マキ 時には母のない子のように

2017-05-20 07:36:03 | 日記
この唄を唄いながら不思議な涙を流しました。母がいるのに、ほんとにいないような気持ちになりました。カルメン・マキ。今どうしているのでしょうか。

カルメン・マキ 時には母のない子のように


カルメン・マキ(旧本名:Maki Annette Lovelace、1951年5月18日 - )は、歌手、ロックミュージシャンである。日本国籍を取得するまでの本名はMAKI ANNETTE LOVELACEであったが、現在の本名は非公表。

アイルランド人とユダヤ人の血を引くアメリカ人の父と日本人の母との間に神奈川県鎌倉市で生まれる。
1968年、私立香蘭女学校高等学校を2年次で中退。イラストレーターか役者になろうかと考えていた時期に、詩人の寺山修司が主宰していた劇団「天井桟敷」の舞台『青ひげ』にたまたま友人に連れられていった。その舞台に感銘を受けた彼女は即入団を決意。同じ年の8月に新宿厚生年金会館での「書を捨てよ町へ出よう」が初舞台(まだこの時は通称名の「伊藤牧」名義)。この時、CBSソニーの関係者の目に止まり、歌手として契約。 芸名の「カルメン・マキ」はこの時期に舞台の練習中にたまたま思いついたものだという。

翌1969年に「時には母のない子のように」(作詞:寺山修司、作曲:田中未知)でデビュー。17歳とは思えないその妖艶な雰囲気と歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼んだ。「本当に親のいない子供にとっては残酷な歌」と言う批判の声があったものの、累計でミリオンセラー[1] の大ヒット。この曲で第20回NHK紅白歌合戦への出場も果たす。ステージにはジーンズ姿で登場し、司会者に「ジーパンもステージ衣装になる時代が来ました」と紹介された。ちなみに、当時の彼女の曲の作曲は武満徹やクニ河内が、作詞は前述の寺山修司や谷川俊太郎が、それぞれ手がけている。

これ以降も個性派歌手として活動し、6枚のシングルと3枚のアルバムをリリースする。前述の「時には母のない子のように」の他にも「山羊にひかれて」や「私が死んでも」「戦争は知らない」と言ったヒット曲が出た。

1993年に日本国籍を取得し、音楽活動を再開。同年、寺山修司歿後十年の企画として『時には母のない子のように』(新録音)を発表し、久保田麻琴プロデュースによる子守唄のアルバム『MOON SONGS』を発表。そして翌1994年には「MOSES」を結成。1995年に『VOICES OF MOSES』を発表。1996年にはOZ時代の盟友、春日博文のプロデュースによる「UNISON」を発表。また、この時のセッションメンバーをもとに「UNISON UNIT」を結成し、ライブを中心として活動。この頃に現在もライブ、アルバム制作で組んでいるギタリスト、鬼怒無月と出会っている。

1997年12月29日、「カルメン・マキ&OZ」の一夜限りの再結成を行う(於:京都大学西部講堂)。
1998年には後藤次利、笹路正徳、春日博文、辻仁成などをプロデューサーに迎えて『SPLIT』を発表。
2000年にはライブツアー「CALMEN MAKI 世紀末を歌う」を行い、翌年にはライブ盤『CALMEN MAKI LIVE 世紀末を歌う』をリリース。
2003年には鬼怒無月らとともに「CARMEN MAKI & SALAMANDRE」を結成。また同年に同名のアルバムをリリースし、ライブ活動も活発化させていく。

2004年には全曲アコースティックのアルバム『ANOTHER WAY』を発表。
2008年には、初の朗読(ポエトリー・リーディング)CD『白い月』をリリース。中原中也、萩原朔太郎らの詩を水城雄(ピアノ)の即興演奏にのせて読み、歌に留まらない表現に新境地を開いた。
現在も全国各地をライブハウスを中心に精力的に回っている。(Wikiより)