とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

あちこち「SYOWA」 115 吉田拓郎 旅の宿

2017-03-14 00:27:10 | 日記
AKIRAはこの唄の歌詞、「浴衣の君はすすきのかんざし・・・」という部分がとても新鮮でいい意味ショックをうけました。なに、すすきのかんざし。ぎょっとしました。耽美主義的な名曲です。・・・吉田拓郎はフォーク全盛時代の象徴的な存在でした。

吉田拓郎 旅の宿


「旅の宿」(たびのやど)は、よしだたくろう(現・吉田拓郎)の4枚目のシングル。1972年7月1日発売。発売元はOdyssey/CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)。

前作「結婚しようよ」がオリコンシングルチャートで3位を記録、メディア露出の少ない中着実に人気を延ばしていた最中に発表されたシングルである。
自身初であり2016年現在、最後となるオリコンチャート1位を記録したシングル。代表曲であると共に、シングルセールスは自己最大である。
フォークソングの王道の曲調であり、歌詞の内容はタイトル通り旅先での宿での出来事が描かれている。なお、「LOVE LOVEあいしてる」1997年10月25日に上岡龍太郎がゲスト出演した際、「自分は作詞家を目指していたが、シンガーソングライターがこんな素晴らしい詩を書けるならば自分は作詞家にはなれない」と、この曲を聴いて作詞家を挫折した旨の発言をしている。
しかし、「旅の宿」の作詞は吉田ではなく岡本おさみによるもの。岡本おさみが夫人との旅行で青森県の蔦温泉に宿泊した際に曲想を得たと言われている。

カバー曲を唄った人が多いのも特色ですね。

布施明(1972年、アルバム『布施明が選んだベスト12』収録)
研ナオコ(1975年、アルバム『愚図』収録)
天童よしみ(2002年、アルバム『歌心名曲選』収録)
メロン記念日(2003年、アルバム『FOLK SONGS 4』収録)
中森明菜(2009年、アルバム『フォーク・ソング2 〜歌姫哀翔歌』収録)
美空ひばり(1978年、アルバム『美空ひばり/唄はどこへ行った』収録)
都はるみ(2009年、アルバム『名曲カバー傑作撰』収録)
やもり(2010年、アルバム『あなたと歌おう』収録)
吉幾三(2012年、アルバム『あの頃の青春を詩う』収録)
高橋真梨子(2015年、カバーアルバム『ClaChic -クラシック-』収録)(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 114 プレイバック Part2

2017-03-12 22:53:37 | 日記
ももえちゃん。いや、もう立派な主婦。きっぱり歌手の世界から手を切り、ご主人とともに家庭を守っておられる。しかし、すごい人気は続いています。こんな歌手はいたでしょうか。女を馬鹿にするなよというメッセージを初めて爆発させた唄としてAKIRAは刺激的に感動しました。・・・いやいや、女性は強くなりました。いいことです。

プレイバック Part2


『プレイバックPart2』(プレイバック パート・ツー)は、1978年5月にリリースされた山口百恵の22枚目のシングルである。「赤い衝撃」以来となる50万枚以上のセールスを記録。

「Play Back」とは「巻き戻し(戻す)」を意味し、現在起こっている出来事のキーワードをきっかけに昨夜の事を思い出すという展開の歌詞になっており、「キーワード」→「"ちょっと待って!Play Back!"」→静寂(巻き戻し)→「キーワード」→回想という流れになっている。タイトルどおり楽曲は一番目の途中で演奏が一時止まり、再び始まるという趣向であった。また2番のこの部分では「キーワード」として「勝手にしやがれ」とあり、これはカーラジオから流れてきた「ステキな唄」が前年に沢田研二によってリリースされた「勝手にしやがれ」であることを示唆、同時に同曲中の「飛び出していった女」のその後とも重なる一種のアンサーソングとなっている。

プレイバックPart2 (3分20秒)

作詞: 阿木燿子、作曲: 宇崎竜童、編曲: 萩田光雄(Wikiより)

(番外)「鋼の錬金術師」 二つのエンディング

2017-03-11 00:46:03 | 日記
以前から気になっていたアニメ『鋼の錬金術師』のエンディングのことです。Aは二つともいい曲だなと思って聴いていました。対照的な二つの曲はアニメの核心に迫っているように思っていました。いや、Aはアニメのことはよく分かっていません。雰囲気的なことを理解しているだけです。でも、この二つの曲はいい、素晴らしい、そう思っています。・・・ちょっと矛盾していますね。

SCANDAL 「瞬間センチメンタル」/ Shunkan Sentimental ‐Music Video


「瞬間センチメンタル」は、TBS系アニメ『鋼の錬金術師 FULLMETAL ALCHEMIST』のエンディング・テーマ。SCANDALはコミックスを全巻読破し、アニメもすべて見たうえで楽曲の制作を始めたという[2]。
「夢見る頃を過ぎても」は、HILLBILLY BOPSの原曲に忠実なカバー。SCANDALは、「夢見るつばさ」というタイトルで当曲をリニューアル・カバーしている。
初回生産限定盤には、表題曲のED verを収録。通常盤初回仕様には、SCANDALのブログをブックレット化した「別冊『超SCANDAL』Vol.1」と、『鋼の錬金術師FA』アニメ絵柄ワイドキャップステッカーを封入。(Wikiより)


鋼の錬金術師ed [Let it out]福原美穂


ファーストアルバム「RAINBOW」が大ヒットし、初のワンマンツアーのチケットも即日完売した福原美穂。6枚目のシングルは、初のアニメとのコラボレーション、「鋼の錬金術師」のエンディングテーマに決定!「絆と宿命、旅」がテーマである「鋼の錬金術師」の主人公の弟目線で描いたこの曲は、「LET IT OUT」=強がらなくていいんだよ。そう意味を込めて、制作が進んだ楽曲。福原の実体験ともつながる家族愛、兄弟愛を「時代」や「社会」に対する疑問や自問自答を覗かせながら表現し、福原作品の新境地をみせている。(ローチケHMVより)

あちこち「SYOWA」 113 狙いうち  山本リンダ

2017-03-10 22:23:18 | 日記
甲子園でこの曲が演奏されていて、Aは正直びっくりしました。四十年以上経っているのに息を吹き返した。それほど生命力のある唄だったのですね。Aは密かに当時山本リンダに憧れていました。

狙いうち  山本リンダ



「狙いうち」(ねらいうち)とは、日本の歌手、山本リンダの楽曲で、23枚目のシングルである。1973年2月25日に発売。

冒頭の「ウララ ウララ…」という歌詞が印象的で振り付けとともにヒットした[要出典]。この曲で山本は、1973年の『第24回NHK紅白歌合戦』に出場した。
なお、都倉の後日談として、この曲は作曲先行で行われた。都倉が阿久にデモテープで送る際、自分のイメージを伝えるために、「ウダダ ウダダ」と自ら歌って録音したものを送ったが、阿久が送り返してきた歌詞が(正式に採用された)「ウララ ウララ」となっていたのを目の当たりにして愕然としたと語っていた。


野球の応援歌として

「狙いうち」という名前が「ボールをヒットさせる(打つ)」事を想起させ、かつ作詞者の阿久悠がOBであったことから、東京六大学野球の明治大学応援団が「チャンステーマ」として導入した(明治大学応援団が唯一山本リンダから応援歌としての利用の公認を貰っている)。
その後、日本のプロ野球・中日ドラゴンズのゲーリー・レーシッチをはじめとする外国人選手の応援歌、最近ではドラゴンズのチャンステーマとして使われるようになったほか、中日および阪神タイガースに在籍していた矢野輝弘の現役時代の応援歌にも歌詞の一部が引用されていた。
また日本の高校野球でも、発売から40年以上経った現在も、1978年のピンク・レディーの「サウスポー」(同曲も同じく作詞・阿久悠、作曲・編曲・都倉俊一)などと共に、応援歌の定番曲のひとつとしてよく知られている。(Wikiより)

あちこち「SYOWA」 112 ピンクレディー de 渚のシンドバッド

2017-03-09 18:19:22 | 日記
「SYOWA」と言ってもこれはぐっと新しくなります。ダンシング・ドール・・・というと失礼千万でしょうか。事実、この二人はそういうお人形のような扱いをされるのに嫌気がさしたとか聞いています。とまれ、驚異的なヒットを続けました。

ピンクレディー de 渚のシンドバッド


ピンク・レディー (Pink Lady) は、1970年代後半に活躍したデュオのアイドル。ミー(現:未唯mie、本名:根本美鶴代、1958年3月9日 - 、A型、静岡県静岡市葵区出身)とケイ(現:増田恵子、本名:桑木啓子(旧姓:増田)、1957年9月2日 - 、O型、静岡県静岡市葵区出身)の2人組。多くの楽曲を阿久悠(作詞)・都倉俊一(作曲)のコンビが手がけた。所属事務所はT&C ミュージック、音楽出版権利・管理はバーニングパブリッシャーズである。

『スター誕生!』で、会社の方針に逆らいプロデビューへの道を拓いたのは、ビクター音楽産業の飯田久彦であった。歌手デビューに際し、全く異なるキャラクターにプロデュースされる。手足を露出したキラキラ光る生地のミニの衣装(デザイナーは野口庸子)と、リズムやビートを強調した曲調によって、田園風景が似合う素朴な二人組が派手な歌謡デュオになった。大胆に太ももを開いたりする激しくセクシーなダンスを行うことから、デビュー当初は成人向け深夜番組の出演が多かった。作曲家・都倉俊一は「カクテルのピンク・レディーに因み『ピンク・レディー』と命名したので『ピンク・レイディーズ』(複数形)にはしなかった」と述べている。

第4弾シングルの「渚のシンドバッド」(1977年6月)は、ピンクレディー初のオリコン調べでのミリオンセラーとなった。この曲によって、ピンクレディーの人気はもはや“社会現象”となり、日本列島に“ピンクレディー旋風”が吹き荒れた。当時はデビューしたばかりのサザンオールスターズがピンクレディーの「渚のシンドバッド」に敬意を表して、同年1977年に大ヒットした沢田研二の「第19回日本レコード大賞」受賞曲「勝手にしやがれ」と「渚のシンドバッド」の曲名を掛け合わせ、自分たちのデビューシングルの曲名を「勝手にシンドバッド」としたほどである。第5弾シングルの「ウォンテッド(指名手配)」(1977年9月)もオリコンで12週連続1位を記録する大ヒットとなり、アメリカで外国人歌手によるカバーソングまで発売された。1977年末、ピンク・レディーは日本レコード大賞において「大衆賞」を受賞した(大賞を受賞した勝手にしやがれとはわずか一票差で大賞を逃している)(Wikiより)