とぎれとぎれの物語

瀬本あきらのHP「風の言葉」をここで復活させました。小説・エッセイをとぎれとぎれに連載します。

パイナップル

2024-07-07 23:44:33 | 創作
パイナップル

                                 瀬本あきら

 終戦前後の話である。

 甘いものをあまり口にしたことのないぼくたち子どもは、お菓子と言えば、煎餅、ポン

菓子、煎り豆などを食べて、これがおやつというものだと満足していた。

 だから、バナナなるものを初めて食べたときの感激は忘れることができない。

 「おいおい、そげに、いっぺんに食べたらすぐなくなってしまーが」

 終戦直後、私たち兄弟に、真っ黒に変色した奇妙なくだものをくれた父の知り合いのお

じさんが、そういって注意した。

 「まずのー、先っぽをがじっと噛んで、たっぶり食べて、そーから、じわじわと食べー

もんだわや」

 二本目は、言われるままに初めはがじっと噛み、後では、しゃぶるように味わって食べ

た。独特のねっとりとした甘味が口中に広がった。こんな果物がこの世にあったのか。そ

う思って、子どもながら生きていてよかったと思った。

 戦争中のことは、昭和18年生まれのぼくには、あまり記憶にない。母から後になって

聞いたが、空襲警報のサイレンが響きわたると、どこにいても、とことこ歩いて帰り、防

空壕に隠れたそうだ。だから、戦争がどういうものであり、日本が終戦後どうなったか、

などという知識は、主に父から聞いていた。

 その父は、二回応召し、初めは浜田連隊で軍事教練を受けて、満州に出征した。なぜそ

の後帰還することができたのか、いつ帰還したのか分からない。二回目は、九州のある基

地に配属になったと聞いている。父の話では、あまり実戦の体験はなかったそうだ。主計

の試験に合格し、糧秣の管理をしていたそうだ。陸軍主計伍長。この言葉は、戦争の話の

ときには必ず出てきた。軍曹になりそこなったことを悔しがっていた。だから、前線では、

死線をさまよっている兵士が多い中、豊かな物資に取り囲まれて暮していた。考えられな

いことである。冬、ビールが凍って瓶が割れ、たくさんだめにした、という話も聞いてい

た。戦地にビールがあったなんて初めて聞いて驚いた記憶がある。それから、たくさんの

中国人の苦力(クーリー)を使っていたこともよく話した。

 終戦後は、その仕事の縁からか分からないが、地元の食糧営団に勤務していた。

 その父が二回目の応召から無事帰ってきたときの様子を今でもはっきり思い出す。とい

っても、これは、母から聞いた話を実体験の映像として記憶しているだけのことなのだが。

 昭和20年の何月ごろだか分からない。ぼくと母は、母の実家でしばらく泊まっていた。

ところへ、藁半紙にくるんだ包みが届いた。開けてみると、缶詰だった。紙も何も張って

ない。缶きりで開けてみると、ひまわりのような形をした丸い黄色なものが入っていた。

 「パイナップルだ」

 母は、叫ぶように言った。

 その言葉も、私は初めて聞く言葉であり、鼓膜の響きとして今も感覚に残っているよう

な気がする。パイナップル。これは、今は亡き母が発した言葉なのだが、なんだか天上か

ら響いてくるような澄んだ声なのである。

 皿に一枚乗せてもらい、滴るシロップとともに、口に運んだ。

 果肉が繊維質で、歯ごたえがあった。

 甘い。これは甘すぎる。途端にそう思った。

 栄養価のないものばかり食べていた人間が、突然、高濃度のカロリー源を与えられたよ

うな感覚で、食べ物という認識は生まれなかった。この独特の感覚も、後で食べたパイナ

ップルの味を、そのときの味にタブらせて記憶しているのであろう。

 そのとき、

 「お父ちゃんのお土産だよ」

という母の言葉を聞いた。

 「お父ちゃん」。何度となく母に尋ねた言葉である。そして、忘れかけていた言葉であ

った。その言葉を久しぶりに聞いたぼくは、咄嗟にその意味を理解しかねた。

 「お父ちゃんだよ」

 母は、もう一度繰り返した。ぼくは直感的に父親という存在が分かりかけてきた。「お

父ちゃん」。物まねのように繰り返して、顔の輪郭を形作ってみる。

 しかし、ぼんやりした形しか浮かんでこない。今でも、そのときの感覚を造形してみる

が、やはりはっきりしない形をしている。これは、当然のことである。しかし、この空想

の物語は、当時の私の存在証明となって心の深くに残っている。



 母と二人、帰り道を急いでいる。母は、ぼくの手を千切れんばかりに引っ張る。田舎の

川土手の路は、果てしなく続いている。ぼくが母と並んで歩けたかも分からないが、コス

モスか何かの花がたくさん土手には咲いているのである。ときどき遠くの国道を砂塵を巻

き上げて進駐軍のジープが走り抜けた。

 「お父ちゃん、家で待ってるから、早く、早く」

 母の顔は、なんだか怖そうに引きつっている。ぼくの中で造形された映像の物語は、こ

うしてほとんどの部分は鮮明に動いてゆくのである。

 そして、玄関に佇む母。こわごわ戸を開ける母。

 それから、最後の映像は、直立不動で敬礼する父の姿が映し出される。

 「陸軍主計伍長、瀬本幸吉、ただいま帰りました」

 初めて見る父の顔。輪郭だけの顔。

 ぼくの映像は、いつもそこで途切れてしまう。母が、そのときどう言ったか、ぼくは、

どういうふうにしていたか。まったく映像が作れないでいる。

 父帰る。その瞬間の感覚は、曖昧模糊としている。ときとして、そのときの父の顔が、

仏壇の中年の遺影とダブって見えるときもあった。

 それから、ぼくが、学校に通うようになってからも、パイナップルはそんなにちょくち

ょく食べたわけではない。

 ……バナナとパイナップル。その舶来の食べ物は、ぼくたち終戦直後に育った人には、

なにか特別の思いが貼り付いているのである。