3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

2016年処暑ー夏の名残のバラを歌いながら戦争回避を考える

2016-08-23 18:23:21 | 日記
物悲しい夏の終わりである。
オリンピックも終わり、祭りの後の静けさよ

夏の名残のバラを歌ってみる。

ブラームスのチェロソナタを聴いてみる。

来し方を振り返り、思えばずいぶん長く生きてきたと思う。

父も母も今はなく、子どものころの幸せな日々は遠のいてしまった。
日本もずっと元気だったあのころ。懐かしい。

思わずしんみりする。

親を見送り、自らの終わりの時を想像してみる。
いつどのようにしてその時を迎えるのだろうか。
その時、日本はどのような社会なのだろうか。
そう遠くない未来なのかもしれない。
あと30年もなさそうだ。

90歳までの生活を存続させることができる心身の最低限の健康と年金と貯金とソーシャルサービスと住宅、そして家族友人たち。
同時に、社会の安定が必要だ。

高齢期になって日本が戦闘状態になっていたらとても生きながらえることなんてできそうにないから。

平和で子どもたちが笑顔で学校に楽しく通える社会であってほしいのである。
だれもが仕事を大切にして、子どもを育てながら、老いていける社会であってほしいのである。

戦争だけは避けたいのである。
そのために今何をすればよいか、考えよう。

2016年の処暑に、もう70年は戦争回避できるような社会の在り方、政治の在り方を考える。

世界の政治的構図が70年前とは変わっている。核兵器の開発も格段に進化している今、人類のこれからを考える。
それが自らの老後を考えることと一緒にすることである。
豊かな老後は平和のうちになければならないのである。





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2016年処暑のバルコーニー~夏の名残のバラ

2016-08-23 16:46:54 | 日記
昨日の台風で、つい先日植えた百日紅が折れた。
ショックである。
調べると百日紅は驚異的な生命力なので、折れてもテーピングすればつながるとのことだが、その情報を得たのは枝を切ったあとで、残念ながら、家の花瓶に挿してある折れた枝。

近くの家の庭先に百日紅が咲いていて美しい。それで植えてみたのだが、台風の強烈な風にやられてしまった。
一応、まだ生きていて、そのまま成長すれば来年の夏は美しい花をさかせてくれそうだが、とにかく、折れてしまって、悲しいのである。

桔梗も終わりそうで、期待しているのは、菊とダリアである。
菊は今年は不作で、夏の初めに美しくさいていたが、最近は、色あせて枯れている。昨年は、今頃はいくつものつぼみをつけていたのだが、今年はつぼみがみあたらない。年によって日照時間などの影響で成長や開花時期も異なるのだろうか。

夏の終わりのバルコニーは秋に向かおうとしているのだが、特段花をさかせるでもなく、イロハモミジがうっそうとした雰囲気を醸し出すのみで、面白みがない。
夏の終わりにむけて皇帝ダリアを植えたのだが、まだまだ咲きそうにない。
夏の終わりのバラ、ミニバラに少し期待をかけるのみである。

夏の名残のバラ、という歌があり、フロトーのオペラの挿入歌である。
庭の千草の原曲。アイルランド民謡。

せめての慰めとして、夏の名残のバラでも歌おうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

http://poemculture.main.jp/s100_6.html
より

The Last Rose of Summer

'Tis the last rose of Summer,               それは夏の名残のバラ
Left blooming alone;                     一輪だけ咲き残る
All her lovely companions        同じ木に咲いた美しき仲間たちはすでに
Are faded and gone;                    色褪せ散っていった
No flower of her kindred,            ともに咲く同じ血筋の花もなく
No rosebud is nigh,                 小さな蕾すらそばにいない
To reflect back her blushes,          仲間がいれば紅の色を映しあったり
Or give sigh for sigh!              嘆きを分かち合うことも叶うのに

I'll not leave thee, thou lone one,        さびしい薔薇よ 私は おまえを
To pine on the stem;            茎の上で嘆き暮らすままにはしない
Since the lovely are sleeping,   愛しい仲間は永久の眠りについているのだから
Go sleep thou with them.                  さあ、共に眠るがいい
Thus kindly I scatter                 こうやっておまえを手折り
Thy leaves o'er the bed            花壇に葉を優しく散らしてあげよう
Where thy mates of the garden               仲間だった花たちが
Lie scentless and dead.             香りもなく散り敷く その上に

So soon may I follow,               まもなく私も後に続くだろう
When friendships decay,                     友情が朽ち去り
And from Love's shining circle          そして愛の輝ける団欒の輪から
The gems drop away!    宝石のような大切な人たちがこぼれ落ちる その時に
When true hearts lie withered,           心を許しあった人が枯れ果て
And fond ones are flown,            愛しき者たちも去ってしまったら
Oh! who world inhabit               ああ、誰が生きて行けようか
This bleak world alone?               この凍える世界に独りきりで
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トト姉ちゃん

2016-08-23 16:20:14 | 日記
トト姉ちゃん、暮らしの手帳の編集者の物語、日本が高度経済成長を遂げる途上で、生活科学、消費者のための調査と情報誌があったことは幸運であった。
豊かな生活実現のため、賢い消費者をそだてるために暮らしの手帳の役割は大きかったのだと思った。

身の回りの日用品や電気製品の性能は、こういう取り組みを経て、それに耐えうるものとして製品の質を上げる努力を企業はしたのだ。
それが、ものつくり日本の高い技術力を作ったのだと思うと感慨深い。

それにしても15年ぶりに再会した元恋人?の家に行くとは、トト姉ちゃんは結構大胆である。
妻に先立たれているので、再婚という話もあるかもしれないが、
私としては、昔の男にかかわることなく、仕事一筋、わが道を行くトト姉ちゃんであったほしいのだが。

だって、結局、女も男も結婚、良い伴侶をえることが人生の最終目的だなんて、つまんないからね。

星野もちゃっかりしている。
トト姉ちゃんにプロポーズしておきながら、断られると、はいさようならで、次の職場でしりあった、たんぽぽのような女性と恋愛結婚するんだから、元恋人としては、許せないとおもうのだがどうだろう。
私だったら、死別しているとはいえ、結婚して2人も子どものいる元恋人なんて、ぶん殴るかもしれないと思うのだが。偉いねトト姉ちゃんは。笑顔でニコニコだ。

戦争を挟んで、苦労をしてきたんだから、トト姉ちゃんは暮らしの手帳の社長としては、もっと、文化人として世界に羽ばたいて活躍してほしいと思うのである。
星野の後添いになるなんて、つまらん人生だ。

もっといい男が登場し、トト姉ちゃんの仕事を後押ししてくれるかっこいい男、それと結婚するというのなら許せるんだが。
素朴な植物オタクの星野なんて、子持ちの星野なんて、なんのロマンスを感じないよねえ。


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リオ五輪の閉会式―安部の売名的パフォーマンスに辟易とする

2016-08-23 15:40:07 | 現代社会論
リオ五輪の閉会式、注目していた。
しかし、あまりの低俗ぶりに静止できず、途中でテレビのスイッチを切った。
安部の売名的パフォーマンス、任天堂との癒着か?
それに、ドラえもんのどこでもドアはいいとしても、チャイナシンドロームを想起させる地球をドリルで掘っていくというのは受け入れがたい。
時間に間に合うために何でもやるって感じで、ぞっとする。

それに椎名林檎の音楽が世界に通用するとは思えない。
病的な青白い歌と踊りになんて不健康な日本と思った。

リオの人々は大らかで、よかったのだが、それに水をさす、不健康極まりのない音楽とパフォーマンスに2020の開会式閉会式は期待できず、絶望的な気持になった。

残念な日本、いいものは山ほどあるのになんであれなんだ!馬鹿野郎!と叫びたい。
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東京五輪2020を考えるー酷暑のなかの開催はどうかと思うのだが

2016-08-21 11:24:53 | 日記
リオ五輪、サッカーも終わり、ドイツが負けて残念無念なのだが、男子マラソン➡閉会式となる。
次の東京五輪2020はどうあるべきか、考える。

先ず、開催時期である。酷暑のなかのマラソン、競歩・・・を考えるとクレイジーとしか思えない。
屋外競技は北海道や箱根や長野など、東京以外の場所を考えるべきではないだろうか。なにも東京にこだわる必要はないのである。
狭い日本なのだから、東京から新幹線で2時間ぐらいなら、東京でなくてもOKだと思う。東京にこだわるのなら、東京都内の高原にいくか?桧原村とか、朝夕は涼しそうだ。
とにかく、屋外競技は涼しいところでないと、熱中症で倒れて死者が出てしまう危険性があるので、再検討が必要だろう。

次に、なにをコンセプトにするかということである。
当然、環境負荷の少ない上質でコンパクトなオリンピックということになると思う。

幼稚なのはやめてほしい。
成熟しきった日本の2020のオリンピックは、派手さはないが、だれもがその文化水準の高さに感動することができるようなコンセプトを出す必要があるだろう。
隈研吾のオリンピックスタジアムはOK。
木の文化、木漏れ日の文化、と言いたいところだが、酷暑の東京、ゲリラ豪雨の東京なので、なんとも不安な次期東京五輪なのである。

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