3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

現代の貧困は見えにくいのである

2016-08-25 11:47:02 | 現代社会論
NHKで高校生が出演して、貧困なので進学できないと語ったとか。
一部見ていたが、そうなのだろうなあと思って、特に違和感はなかったが、世の中にはずいぶん、他人の生活をあれこれ言う人がいるらしい。国会議員にもいるらしい。

世の中せちがらくなっている。

自分が貧乏だと自分より少しいい生活をしているように思える人が「貧困なんで」というと、「なにいってだ!」と怒るようである。
私よりいい生活しているくせに貧困だなんていっているよ!ということなんだろう。
みんな生活に余裕がないと、他人の生活をうらやましく思い、ちょっとでも、貧困なんで、というようなものなら、攻撃を仕掛ける。我慢が足りないと。

そもそも非難している人というのは、貧困概念について無知なのだろう。
きっと「貧乏」というのは住むところもなく食べるものもなく、ぼろぼろの身なりで、電気も止められて、毎日水しか飲まないような生活だと思い込んでいるようである。
現代の貧困、先進国における貧困はそういう貧困ではないというのは、この20年ぐらい言われ続けていることである。
相対的貧困というものである。
その社会の常識的な生活様式からかけな離れているかどうか、その度合いで決まる。
皆が携帯をもっている、毎日風呂に入るという文化のなかで、携帯をもっていない、週に1回しか風呂に入れないというのは、ある意味貧困であるということである。
OECDなどでは、平均所得の半分に満たない所得しかない人は相対的貧困としてみなして国際比較するのであるが、日本は、この率が意外に高いということで先進国のなかでめずらしがられているのである。

ここで強調すべきなのは、豊かな日本に生まれているのに、その豊かさを享受できず、本人の責任ではなく、経済的に苦しい家に生まれたというだけで、進学ができないということ、それが不平等であること、それが問題なのである。

ぼんくらのくせに、総理大臣の孫にうまれたというだけで、家庭教師をつけてもらって、クーラーの部屋で何不自由なく暮らしている小学生、おじいさんのコネで何でも手に入るような安倍晋三少年みたいなのがいる一方、その逆もいるわけで、それは不平等というものである。

生まれた家庭の貧富にかかわらず、平等に機会が与えられる社会でないと有能で才能ある子どもが埋もれてしまい社会としてももったいないのである。


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自らの老いに向き合うとき

2016-08-25 11:24:47 | 日記
2013年に母を見送ってから、配偶者の両親の介護などで、仕事も多忙を極め、なかなか歌う時間がなく、結果としてかなりの声の低下が起きている。
毎日歌っていたのは昔の話。
親の介護や看取りを経験すると人生経験は豊富になるものの、声を出す気力もなくなり、体力の低下も手伝って高音はまるでだめになる。葬儀の読経はいいが、線香でのどがやられる。喪中はなんとなく、寡黙になるもので、声がしわがれる。こうやってだんだん正真正銘の年寄りになるのか。
加齢とともに声はでなくなるものなのだろう。トレーニングを積んでいればよいのだろうが、人生のさまざまな分岐点に素人はいつでも歌っているわけにはいかないのだから、仕方がない。

高音が出にくくなること、これを自らの老いとして受け入れざるを得ないということだろう。

老眼になったり、あちこちが痛くなったり、しわが増えても、そう老いを感じることはなかったが、このところ、親を見送ったりして、次は私の番かと思ったりして、また、高音がでない、かつて楽々でていた高音が出にくくなったことを自覚すると、ますます老いを感じる。

とうとう老いがやってきたのだと思うのである。

人それぞれの最後があるということはわかっている。
いつどのようにどこで私に死が訪れるか、わからない。

淡々と老いを受け入れ、ある時は病いと闘い、寄り添い、そしてやがて最期の時が訪れるのだろう。

まだ先だが、一つと区切りとして定年がやってきて、社会的な関係性は途絶えがちになる。
そして、病いや虚弱化がやってきて、年金医療介護という社会保障費用の財政圧迫の張本人となる。

その時、若い者たちは、私のような年金受給者を「穀つぶし」というのだろうか。
そういう文化は避けたいものである。人は生まれて死ぬまでいつでも強くあり続けることはないのだからね。

夏の終わり、妙に老いを感じるのである。


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