3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

やまゆり園事件を考えるー辺見庸のやまゆり園事件のコメント

2016-08-24 12:54:04 | 現代社会論
辺見庸が琉球新報で「やまゆり園事件」についてコメントしている。
以下引用である。

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辺見庸「琉球新報」2016年8月11日
【誰が誰をなぜ殺したのか(上)――惨劇がてりかえす現在】
わたしらは体に大きな穴を暗々(くらぐら)とかかえて生きている。その空しさにうすうす気づいてはいる。しかし突きとめようとはしない。穴の、底なしの深さを。かがみこんで覗きでもしたら、だいいち、なにがあるかわかったものではない。だから、アナなどないふりをする。空しさは空しさのままに。穴は穴のままに、ほうっておく。いくつもの穴を開けたまま笑う。うたう。さかんにしゃべる。穴ではなく愛について。ひきつったように笑い、愛をうたい、空しくしゃべる。黒い穴の底に、愛がころがり落ちていく。相模原の障がい者殺傷事件の容疑者はとっくにつかまっている。だが、誰が、誰を、なぜ殺したのか―― この肝心なことが正直よくわからない。のどもとにせりあがってきているものはある。それを言葉にしようとする。言葉がボロボロとくずれる。白状すると、わたしは夜中に思わず嗚咽してしまった。闇にただよう痛ましい血のにおいにむせたのではない。人間にとってこれほどの重大事なのに、その”芯”を語ろうとしても、どうしてもうまく語りえないだけでなく、わたしの内奥の穴が、仮説という仮説をのみこんでしまうのだ。それで泣けてきた。惨劇からほのかに見えてくるのは、人には①「生きるに値する存在」②「生きるに値しない存在」―― の2種類があると容疑者の青年が大胆に分類したらしいことだ。この二分法じたいを「狂気」と断じるむきがあるけれども、だとしたら、人類は「狂気」の道から有史以来いちども脱したことがないことになりかねない。生きるに値する命か否か―― という存在論的設問は、じつのところ古典的なそれであり、論議と煩悶は、哲学でも文学でも宗教でもくりかえされ、ありとある戦争の隠れたテーマでもあったのだ。

たぶん、勘違いだったのだろう。自他の命が生きるにあたいするかどうか、という論議と苦悩には、これまでにおびただしい代償を支払い、とうに決着がついた、もう卒業したと思っていたのは。それは決着せず、われわれはまだ卒業もしていなかったのである。あらゆる命が生きるに値する―― この理念は自明ではなかった。深い穴があったのだ。考えてもみてほしい。あらゆる命が生きるに値すると無意識に思ってきた人々でも、おおかたはあの青年への来たるべき死刑判決・執行はやむをえないと首肯するのではなかろうか。つまり「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の種別と選別を、間接的に受けいれ、究極的には後者の「抹殺」をみんなで黙過することになりはしないか。だとしたら......と、わたしは惑う。だとすれば、死刑という主体の「抹殺」をなんとなく黙過するひとびとと、「抹殺」をひとりで実行した彼との距離は、じつのところ、たがいの存在が見えないほどに遠いわけではないのではないか。少なくとも、われわれは地つづきの曠野にいま、たがいに見当識をなくして、ぼうっとたたずんでいると言えはしないか。

ナチズムは負けた。ニッポン軍国主義は滅びた。優勝劣敗の思想は消え失せた。天賦人権説はあまねく地球にひろがっている。だろうか? ひょっとしたらナチズムやニッポン軍国主義の「根」が、往時とすっかりよそおいをかえて、いま息を吹きかえしてはいないか。7月26日の朝まだきに流された赤い血は、決して昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角から吹きでた現在の血である。それは近未来の、さらに大量の血を徴してはいないか。あの青年はいま、なにを考えているのだろうか。悪夢からさめて、ふるえているのだろうか。かれにはヒトゴロシをしたという実感的記憶があるだろうか、「除草」のような仕事を終えたとでも思っているだろうか。生きる術(すべ)さえない徹底的な弱者こそが、かえって、もっとも「生きるに値する存在」であるかもしれない―― そんな思念の光が、穴に落ちた彼の脳裡に一閃することはないのだろうか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月11日)

【誰が誰をなぜ殺したのか(下) ――痙攣する世界のなかで 】
目をそむけずに凝視するならば、怒るより先に、のどの奥で地虫のように低く泣くしかない悲しい風景が、世界にはあふれている。「日本で生活保護をもらわなければ、今日にも明日にも死んでしまうという在日がいるならば、遠慮なく死になさい!」。先だっての都知事選の街頭演説で、外国人排斥をうったえる候補者が、なにはばからず声をはりあげ、聴衆から拍手がわいたという。かれは11万4千票以上を得票している。わたしの予想の倍以上だ。これと相模原の殺傷事件の背景を直線的にむすびつけるのは早計にすぎるだろう。けれども、動乱期の世界がいま、各所で原因不明のはげしい痙れん症状をおこしているのは否定できない。あの青年が衆院議長にあてた手紙には、愛と人類についての考えが、こなごなに割れた鏡のかけらのように跳びはねている。「全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意……」の文面が、ガラス片となって目を射る。「全人類が心の隅に隠した想い」とは、ぜんたいの文脈からして、重度障がい者の「抹殺」なのである。障がい者 は生きるに値せず、公的コストがかかるから排斥すべきだというのが、人びとが「心の隅に隠した想い」だというのだろうか。これが「愛する日本国、全人類の為」というのか。ひどい、ちがう!と言うだけならかんたんである。凶行のあったその日も、その後も、世界はポケモンGOの狂騒がつづき、テレビは「真夏のホラー(映画)強化月間」に、リオ五輪中継。リアルとアンリアルのつなぎ目がはっきりしない。そう言えば、善意と悪意の境界もずいぶんあいまいになってきた。障がい者19人を手ずから殺めた青年に、犯行の発条(ばね)となる持続的な悪意や憎悪があったか、いぶかしい。戦慄すべきは、殺傷者の数であるよりも、これが「善行」や「正義」や「使命」としてなされた可能性である。

惨劇の原因を、たんに「狂気」に求めるのは、一見わかりやすい分だけ、安直にすぎるだろう。「誰が誰をなぜ殺したのか」の冷静な探問こそがなされなければならない。世界中であいつぐテロもまた「誰が誰をなぜ殺したのか」が、じっさいには不分明な、俯瞰するならば、人倫の錯乱した状況下でおきている痙れんである。そうした症状はなにも貧者のテロのみの異常ではない。米軍特殊部隊は2011年、パキスタンでアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディンを暗殺したが、その前段で、中央情報局(CIA)のスパイがポリオ・ワクチンの予防接種をよそおってビンラディン家族のDNAを採取していたことはよく知られている。ワクチン接種がポリオ絶滅のためではなく、暗殺のために利用されたのだ。結果、パキスタンでポリオの予防接種にあたる善意の医療従事者への不信感がつのり、反米ゲリラの標的となって殺される事件がことしもつづいている。ポリオ絶滅は遅れている。それでも米政府はビンラディン殺害を誇る。「米国の正義」を守ったとして。正義と善意と憎悪と "異物" 浄化(クレンジング)の欲動が、民主的で平和的な意匠をこらし、世界中で錯綜し痙れんしている。7月26日のできごとはそのただなかでおきた、別種のテロであるとわたしは思う。あの青年は "姿なき賛同者" たちを背中に感じつつ、目をかがやかせて返り血を浴びたのかもしれない。かれが純粋な「単独犯」であったかどうかは、究極的にかくていできはしない。石原慎太郎元東京都知事は、前世紀末に障がい者施設を訪れたときに、「ああいう人ってのは人格があるのかね」と言ってのけた。新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している――なにを物語るのか。「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。他から求められることの稀な存在を愛することは、厭うよりもむずかしい。だからこそ、その愛は尊い。青年はそれを理解する前に、殺してしまった。かれはわれらの影ではないか。(辺見庸「琉球新報」2016年8月12日)

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相変わらずの辺見庸である。

7月26日の朝まだきに流された赤い血は、決して昔日の残照でも幻視でもない。「一億総活躍社会」の一角から吹きでた現在の血である。
新しい出生前診断で "異常" が見つかった婦人の90%以上が中絶を選択している――なにを物語るのか。「生きるに値する存在」と「生きるに値しない存在」の二分法的人間観は、いまだ克服されたことのない、今日も反復されている原罪である。と辺見庸は言う。


結局、ナチズムを1945年に我々は超えたと思っていたが、そうではなかったのである。天賦人権説はあまねく広がっているがそれは表層だけでなのである。実際、新型出生前診断で90%の女性が中絶を選択しているのだから、生きるに値する存在と値しない存在という暗黙の命の選択がなされているではないか、と言っている。

確かに新型出生前診断をしてダウン症や重度の障がいであることがわかったら、悩みながらも女性たちのほとんどは実際中絶する道を選ぶのかもしれない。それはある種の命の選択である。その「胎児」が生きるに値するか否かを母親が判断している。そうするしかないから。その行為を誰も責められないだろう。その論理をつらぬけば、中絶されるべき存在だったが生まれた人々は、そもそも生きるに値しない存在だったのだから、となるのだろうか。

片方の手で中絶をしておきながら、もう一方の手で、命の大切さを説き、福祉の名のもとに重度障がい者を手厚く介護する。働く人々が納めた年金保険料に税金を加えた障害年金が彼ら彼女らに支給され、施設(人里離れたところに集められ)で暮らす。
しかも、殺されたにもかかわらず、実名は報道されず、家族の希望で名前が伏せられる。中絶をせずに生まれた家族をやっぱり施設に押し込めて、いなかったことにしている。でも、みんなそれ以外の方法が思いつかず、なんとなく触れずになんとなく容認。
なんと矛盾した世界なのだろうか。

我々はナチズムの優性思想から一歩も抜け出てはいない。人権を振りかざしながら、中絶をし、施設で暮らす家族はいないことになっている。
どう読み解くのか。悩み続けるしかないのだろうか。

いったん生まれた命は、生きるに値するかどうかよりすべてを受け入れるべきだろう。そういう社会を我々は選んでいるはずである。
それに、生まれてきた命がいつでも強者であり続けることはない。強い時もあれば弱い時もあり、弱いままのものもいるが、それを多様性として我々は受け入れている。
生きるに値するかどうかより、我々はむしろ、強くあり続けることができない、というところからとりあえず始めるべきなのではないだろうか。
コメント
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