3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

マーガレット・サッチャーのDVDを観たーその2 女性を出世させるためのいくつかの方法

2013-05-22 17:50:52 | 女性の地位
サッチャーはいろいろあるので、評価が難しいが、DVDのなかで、デニスからのプロポーズを受けるシーンで、印象に残ったフレーズを引用する。

「あなたと結婚するわ。でも、ほかの女性のように夫に寄り添うしおらしい妻にはなれない。台所で一人さびしくお皿を洗っているような妻にもなれない。自分の人生をどう生きるかが重要なのよ。料理や掃除、子育てなんかより、大切なものがある。お茶碗を洗うだけの人生なんて。私は本気で政治をやりたいんです。」

彼女にとって、デニスとの結婚は、政治家として成功するための手段だったのだろう。
保守党のなかで未婚の女性では、社会は支持してくれない。
結婚していて、子どもがいて、はじめてまともな女性として認められる、という時代だったのだ。

しかし、料理や掃除、子育てなんかより、大切なものがある、と言い切れる大正14年生まれの女性が何人いるかと思うと、すばらしい。
今だって、家のこと、子育て、そういうのをまともにやって、初めて仕事をという風潮である。ましてや、政治に口だしするのは大変なエネルギーである。

デニス「そういう君と結婚したいんだ」

英国史上、初の女性首相を生み出すためには、デニスが必要だったとつくづく思うのである。

首相になるときに支援してくれたニーヴもなくてはならない存在だった。

そう考えるとき、女性の管理職誕生の陰には、家庭内で支援してくれる有能な夫、職場でも支援し、引き上げてくれる上司、同僚が必要だ。そして、時代の後押しも。しかし何と言っても、本人の強固な意志、これが必要である。

子育てで3年、お休みなどしていたら、本気の仕事はできないのである。
いつまでもあると思うな管理職ポストである。

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時代遅れの恥ずかしい日本人ー今さら、女性手帳、三歳神話、靖国参拝、そして従軍慰安婦是認?!だって

2013-05-22 11:54:01 | 現代社会論
アベノミクスだとかいって株が上がって喜んでいるようだが、それにしても政権与党およびその周辺の人々のセンスは恥ずかしい日本人の塊としか言いようがない。

今さら、3歳神話を持ち出して3年の育児休業だとか、産めよ増やせよの平成版の女性手帳だとか、WW2の反省のともに細心の注意がであるはずの戦犯の取扱いもどこかにふっとんで参拝しちゃうとか、そして、隣国との摩擦を避けなければならない時勢になっても従軍慰安婦是認発言、どうするとこのような世界の趨勢からまったく遅れてしまうような発言と行動ができるのだろうか。

3年も家にいて子育てしていたらキャリアは消滅するのが世の常である。
従軍慰安婦の問題にしても5月の初めに国連から恥ずかしいことに日本は人権感覚欠落と注意されてしまったくらいである。

日本は紛争の続く途上国並みの人権意識と世界の物笑いの的である。

国民栄誉賞なんか出して、野球してみたり、歌うたってみたりして、国民の印象をよくしようとしているらしいし、そういうのを喜ぶ国民もいて、いやになるのだが、そういう手段で権力を握った人々が、勝手にやって、これまで日本はやばい道に知らず知らずのうちにはいってしまったという前歴があるので、よほど注意しないと大変なことになる。政治家の内向きな行動、選挙に勝って「改正」をやるためにならどんなことだってやる、というなりふり構わないやり方が見え隠れして、危ないものを感じる。


隣国とは仲良くしなければ経済も回らず、国民生活は悪くなるだろう。

高度経済成長期のように若年人口も壮年人口もたくさんいるわけではないのだ。経済の構造そのものが変わってしまっているのだから、夢よもう一度の時代錯誤の所得倍増などと寝言を言っている暇はない。女性たちも3年も休暇取っている場合ではない。本当は寝る間も惜しんで働かなければならない危機的状況だと思うのだが。
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マーガレット・サッチャーのDVDを観た-腰抜けの男子をなぎ倒す姿は女性管理職のモデルです

2013-05-19 21:06:24 | 女性の地位
サッチャーのDVDを観た。
認知症になった人の心の風景を描いているシーンがたくさんあって、そういう側面からみると、それはそれで大変勉強になる。
しかし、やはり、イギリスの初の女性首相の物語としてみると、ある種の感動を覚える。

彼女は、貴族ではなく、食料品店の娘だ。
しかし、頭がよく努力家だったのだ。

しかも、女権拡張論者だったと思う。
日本でいえば大正末期の生まれだ。そういう女性が、大志を抱き、オックスフォード大学に入学し、化学を学び、そして、デニスという伴侶と出会い、法律を学び、政治家として世にデビューする、というライフコースは奇跡なのではないか、と思う。さまざまな出会いとチャンスに彩られていたのではないかと思う。

夫や子供より政治、一生、食器を洗う生活などいやだ、と、デニスにいうシーンがあった。結婚するときの話だが、大正末期生まれの女性はイギリスだって日本だって一生食器を洗う人生だったのに、そこから脱出した彼女はえらいと思う。

鉄の女といわれて、毀誉褒貶、戦争もして、男並みの政治的腕力を発揮する。
小さな政府、人頭税、彼女のやり方は強引だが、私は、ちなみに大きな政府が好きだが、しかし、彼女の決断力は学ぶべきところがある。

認知症になって、デニスはもう亡くなっているのに、話しかけるシーンがたびたび出てきて、それによって映画は展開する。
脚本も素晴らしいと思う。女性監督も素晴らしい。

結局、サッチャーはデニスに支えられていたのだなあ。子どもよりデニスが一番だったのだし、デニスもこの稀に見る才能の持ち主である妻の出世を喜びとしていたに違いない。それが彼の愛し方だったのだ。そして彼女もデニスに全面的に精神的に依存していた。

政権末期、側近に厳しい姿が描かれ、それによって人望が失われていくさまが描かれていた。
男性にしても、政権末期は人が離れていくのは仕方のないことだろう。
すでにすこし認知症の症状がでていたのか?それとも、自らの地位の政治力に浸って、新しい努力を怠ったのだろうか。
サッチャーが決断力のない男ども!となじるシーンがたびたび出てきた。そう、男は権力の座に居座っていて、新しいことをしないし責任を取らないものだ。腰抜けばかりだから、サッチャーみたいな敏腕女性管理職が彗星のごとく登場し、ばっさばっさと腰抜け男をなぎ倒すのは痛快だろうなあ。



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従軍慰安婦をめぐって―橋下発言は撤回されるべきである。

2013-05-19 14:11:54 | 女性の地位
戦争と暴力はつきものである。従軍慰安婦は負の遺産である。
遺産にしたいものであるが、今でも形を変えて慰安婦はなくなっていない。「風俗」として是認する発言も出てくるほどである。
橋下はあまりにも下品である。
橋下の従軍慰安婦発言、風俗発言は、日本が慰安婦や「風俗」を是認してきたという事実にたった象徴的なものである。

これに対して不快感をみな示すが、じゃあ、風俗を女性差別、性の商品化として徹底的に取り締まるかというと、そんなことはせずに生ぬるいことをやっているし、痛みを感じているとは思えない状況である。

最近は、若い学生などの間でも、「風俗」が日常化しているようだ。

社会には裏社会があるからとことん根絶することは無理にせよ、やはり、このところの風俗是認文化はなんとかならないものであろうか。

そんなことをいうのなら、橋下よ、自分の妻や娘に沖縄の風俗で働いてもらおうじゃないか、ということになる。
生死をかけて働いている軍人のみなさまを慰安申し上げるのだから、是認している人たちの周りの人にその役割はお願いしたい。

「風俗」といって、なんだかそういうお仕事をしている人がいるのでそこにお任せ、というような風潮だが、そういう人たちは好き好んでやっているのだろうか?最後のお仕事、あるいは自暴自棄、性的虐待の果て、というようなことなのではないかと思われ、「風俗」ではたらく女性(男性を含む)たちをそこに押し込め、放置するような社会はいかがなものか?

性をひさぐといのは、やはり、やばいのではないだろうか。

いやしくも自治体の長、政党の代表たるものが、本音はいろいろあっても仕方ないが、オフィシャルに従軍慰安婦、風俗を是認するような発言はしてはいけない。人権蹂躙である。即時撤回し、謝罪すべきである。
それが人権蹂躙ではないと思うようでは、そういうセンスでは困る。そういう輩は即刻、政治家を辞めるしかないだろう。



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国立大進学にも親の所得差くっきり-そりゃあそうだろう

2013-05-16 11:09:52 | 現代社会論
朝日のデデジタル版の記事
「年収400万円以下の低所得層と1050万円以上の高所得層では、子どもの国公立大進学率に3倍近い差があった。2006年の調査時にはなかった傾向」なんだそうだ。

*昨春、高校を卒業した子どもの保護者が対象。1064人が回答。

 国公立大進学率は、400万円以下の低所得層が7・4%。所得階層が上がるほど進学率も上がり、1050万円以上の高所得層では20・4%となった。私立大はそれぞれ20・5%と42・5%だった。


06年と比較するまでもなく、基本的に、国立大学、とくに難関国立大学は親の所得階層が高い(学歴が高く、専門職に就いているので所得がたかい) 、ということは常識である。

親の学歴が低く、所得が高くないから、子は仕方なく底辺私立(学費がそれでも少しは安いところ)にいくしかない、というのが現実である。

難関国立大学は、受験科目が多い。東大法学部など、センター入試、本試と合計すると、社会3科目、理科1、英数国(古文漢文含む)ということだったかと思うが、それなりに時間と金力、努力、地頭のよさ、が必要とされる。

一方、底辺私立だと、1科目とかAOとか、怪しいものがあって、努力しなくても入れるから、塾などにいかなくても、金力はあまりいらない、ということで低所得で子どもにお金をかけられない層は、てっとり早く私立にいくということになるのである。

国立大学の学費を10万円以下にしなければならない。そうすればもうすこし流動性が生じるだろう。

ずっと言っていることだが、すべての家庭の子が大学に行く必要はない。
底辺私立に無理していくより、早くから仕事について、技術を磨くとかそういうほうがずっと、本人にとってもよいし、家族も社会もありがたい。先行きの見えない日本、無理に大学などいかなくても、生きていけるようにする、そういう社会システムにすべきなのである。
国立大学は学費を下げ、所得階層に関係なく、地頭のよいものだけがいけばよいのである。子どものころから金力にまかせ、塾と家庭教師でやっとこさ入るような金持ちのぼんくら息子、娘は難関国立大学にはいらない。そういう輩こそ私立大学にいけばよいのである。

金持ちの特権階級のようなセンスをもったものが、権力をにぎるようなことになったら大変なことになるのである。まったくもって品のない社会になってしまうのである。今でも下品きわまりないが。






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