3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

肩車社会をどう乗り越えるか

2013-11-21 17:34:26 | 現代社会論



高齢化社会を迎える前、かつては、胴上げ型だった。
少ない高齢者層を多くの若年壮年層で支えていた。
年とっても若い人たちがたくさんいたし、家族と同居することが日常だったから、なんとか家族や社会が扶養、介護してくれていた。
ところが、それが、急激な少子高齢化であっというまに2012年には騎馬戦型となり、そして2050年は肩車社会となることが予想されている。

年金、医療、介護の費用と人手をどう調達するのか、が、我が国の最大の課題である。
多くの人の寿命が延び、高齢期がかつてないほど長くなり、身体機能や精神的活動が低下する人たちが途方もなくたくさんいるのである。
それらの人を最後まで路上や孤独のうちに誰にも看取られずに亡くならせるわけにはいかない。どこで老後を過ごしどこで死んでも自由だが、それでも一人一人の人権を守り、自由で民主主義国家である先進国の日本で最後を迎える、それなりの最後の在り方を考え整えていかなければならない。
無意味な延命医療や豪華な葬式や墓はいらないし、環境破壊をしない埋葬の仕方が追求されるべきである。

震災復興、フクシマの安定、経済の復調、そして、同時に社会保障制度の持続可能性をどう作るか、この連立方程式を解く以外に再生の道はない。
社会保障制度の持続可能性のゴールは、だれもが豊かな高齢期(最低の年金、住宅、健康維持のための医療、要介護になっても心配がない)と最後の時、やすらかな死を実感できるか、そのための社会保障の在り方を考えるということだろう。

若者や中年も税金を払いたくないとか、高齢者ばかりになぜ社会保障費用が投入されるのかと不満を言いたいだろう。
しかし、自分たちの祖父母や親の世代を路上死や孤独死や質の悪い介護のうちに死なせるわけにはいかないだろう。
親や祖父母が豊かな老後や死を迎えられるように、考える必要はあるだろう。
抽象的な議論をするより、身近な問題として世代間の連帯という視点でみれば、おのずと解答は見えてくるというもの。

税金や人材やいろいろなところで高齢者世代と若者世代は連帯すべきなのであり、それが成熟した市民社会なんだろうと思う。



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