一葉が明治29年11月23日、霜晴の寒い明け方、本郷丸山町4で淋しく数え年25歳でその短い生涯を閉じてから、何年たったのだろうか。
121年。
幾星霜たっても、一葉は輝き続けていると思う。
一葉の日記を読み、横山源之助とも共鳴していたところをよんで、ますます好きになる。
「我は女なり。いかにおもえることありとも、そは世に行ふべき事かあらぬか。」(和田P.314)
一葉は一葉のやり方で貧困を、女性の人生の悲しみを考えた。もっともラジカルに社会変革を描いていたのではないか。
吉原を不倫を夫婦の亀裂を描いた。そして、わが身は没落士族として時代の変動にあえぎ貧困に苦しんでいた。
しかし、稀に見る才能をもっていた。自信に満ちた誇り高い女性として、自立する女のフロンティアである。
小説を通し、社会に目を向けながら描いていたとするなら、これは平塚雷鳥の登場以前の雷鳥を超える地に足のついた新しい革命的女である。
和田芳恵「一葉の日記」(講談社文芸文庫)
瀬戸内寂聴「わたしの樋口一葉」(小学館)
「樋口一葉、日記・書簡集」(ちくま文庫)
一葉の仕事、自ら社会の底に生き、様々な人間像、生活を描き、そこから、社会の矛盾を世に問う。
女の生活と人生を書きながら、一葉は、明治という新しい時代の転換期にあって、なおも貧困にあえぎ、女性であることの苦悩を身を以て感じ、知らず知らずのうちにきわめて社会的な視点を形成していったと思う。それは、天才的な小説家としての才能、人物の描き方はまさに天才的である、に裏打ちされていたからこそであり、だからこそ、登場人物が絵空事ではなく、リアルな生きた人物として我々に迫ってくるのである。この苦しみと悲しみをどうしてくれるのかと。
もう一度、われわれは女性の地位を語るとき、一葉を読むことから始めなければならないと思う。
上野千鶴子なんかの女性学などはぜんぜんだめである。言葉遊びに過ぎない。
日本の女性解放運動は、一葉から始まるのである。
121年。
幾星霜たっても、一葉は輝き続けていると思う。
一葉の日記を読み、横山源之助とも共鳴していたところをよんで、ますます好きになる。
「我は女なり。いかにおもえることありとも、そは世に行ふべき事かあらぬか。」(和田P.314)
一葉は一葉のやり方で貧困を、女性の人生の悲しみを考えた。もっともラジカルに社会変革を描いていたのではないか。
吉原を不倫を夫婦の亀裂を描いた。そして、わが身は没落士族として時代の変動にあえぎ貧困に苦しんでいた。
しかし、稀に見る才能をもっていた。自信に満ちた誇り高い女性として、自立する女のフロンティアである。
小説を通し、社会に目を向けながら描いていたとするなら、これは平塚雷鳥の登場以前の雷鳥を超える地に足のついた新しい革命的女である。
和田芳恵「一葉の日記」(講談社文芸文庫)
瀬戸内寂聴「わたしの樋口一葉」(小学館)
「樋口一葉、日記・書簡集」(ちくま文庫)
一葉の仕事、自ら社会の底に生き、様々な人間像、生活を描き、そこから、社会の矛盾を世に問う。
女の生活と人生を書きながら、一葉は、明治という新しい時代の転換期にあって、なおも貧困にあえぎ、女性であることの苦悩を身を以て感じ、知らず知らずのうちにきわめて社会的な視点を形成していったと思う。それは、天才的な小説家としての才能、人物の描き方はまさに天才的である、に裏打ちされていたからこそであり、だからこそ、登場人物が絵空事ではなく、リアルな生きた人物として我々に迫ってくるのである。この苦しみと悲しみをどうしてくれるのかと。
もう一度、われわれは女性の地位を語るとき、一葉を読むことから始めなければならないと思う。
上野千鶴子なんかの女性学などはぜんぜんだめである。言葉遊びに過ぎない。
日本の女性解放運動は、一葉から始まるのである。