薬物依存で措置入院の患者、障がい者施設の元職員の殺傷事件は世界に衝撃を与えた。
パリや二-スやミュンヘンのテロとは少し違う。
障害のある人々を標的にするとは、悲しいばかりである。
経済合理性を追求する社会で生まれ、育つと結局、生産性が高いか低いかでなんでも評価する癖がついてしまう。
生産力のないものは悪で生産力のあるものは善という価値観である。金持ちが偉くて貧乏人は軽蔑する。元気で働けるものはいいが、働けずに施設で暮らしているのは悪、いらない存在と思うのだろうか。
そういう社会の序列のなかで、仮に脱落してしまうとどうなのか。さらに自分より弱く生産性の低いものが疎ましく思えてくるのかもしれない。
自分は序列の下のほうで苦労しているが、それより生産性がひくい「何もできない障がいのあるひと」が自分より、家族に愛され施設の職員に大切にされ、高度な医療や介護を受けていることが受け入れがたくなるのだろうか。
しかし、世の中を見渡せば、そんなに生産性の高い人ばかりではないことは明らかである。
むしろ、経済合理性の外側にいる人のほうが多いくらいだ。
子どもだって、将来は世の中を支える人になるだろうが、今は生産性は低い。
高齢者なんて、かつてはがんばって高度経済成長を支えてきたんだが、今では寝たきりや認知症になって要介護である。
障がいのある人だって、いろいろな障がいの程度もあり、たくさんいる。
がんで仕事から離れている人。うつ病で仕事に行けない人、それこそ精神的な疾病をかかえていて社会的生活が営めない人など、見わたせば半分は生産性が低いと思われる人ばかりである。
別の見方をすれば、我々は一生のうち、いつでも元気で働けるばかりではないということである。だれもが病や障がいや失業などで生活保護や入院や介護サービスの世話になる。そういう日のために我々は安くない税金を日ごろから払い、働けない人の分まで働く。自分だっていつか働けなくなるから、その日のためにね。
そういう風には考えられなかったのだろうか。
これは、ヘイトスピーチに近い構造と思うのである。ただただ嫌う、意味もなく嫌い排除する。貧しく荒れた心なのだろう。
それにしても、措置入院の問題がこれほどまでに表面化した事件もないだろう。
措置入院してもすぐに退院させられてしまうのは本当に問題である。
措置入院というのは自傷や他傷の危険があるということで非常に重い人ということである。
そういう人をそもそも簡単に退院させてしまう、そういう診断を下してしまう精神科医のレベルが低いという問題。
さらに精神病院は満杯で手が回らないという問題。
医療費削減という政策的な流れの中でなるべく入院期間は短くするのが最近の状況だから、すぐに退院させられるのも仕方がないという風潮。
さらに、退院しても家族におねがいするという依然として古い精神科医療の問題。
そして、家族にお願いするといっても本当に家族が引き受けたかどうかさえ確認しないで退院させてしまう無責任な病院と行政のやる気のなさ。
これだけそろえば、凶悪な事件もありうるだろう。
これは日本の精神科医療が全く持っていい加減であることの証拠である。
こんなことをしていたら、第二のやまゆり園事件が起きてしまう。
措置入院をした患者が退院する場合、徹底的に地域ケアの体制をつくるべきなのである。
高齢者だって、退院するときは在宅で生活できるか、訪問医療、訪問看護、訪問介護、訪問入浴、介護用ベッドなどいろいろ用意してからいよいよ退院である。
ましてや薬物依存や人格障害などで他傷の危険がある患者なのである。より一層の慎重さが必要だろうに。
我々の社会が精神障害の人を地域でどうケアするか、重度重複障がいのある人々の尊厳を守るのと同じくらい重要なことである。
この事件のあと、東大の福島智先生、立命館の立岩真也、そして長瀬修、早稲田の岡部耕典氏の談話が新聞にでていた。
この人たちを抜いてこの問題を語れる人はいないだろう。
彼らのコメントはどれも素晴らしかった。ナチスの障がい者殺戮と絡め、また、精神障がい者の犯罪率は必ずしも高いとは言えないことなどにふれていた。
この事件の問題をきちんと整理し、再発させない気概を感じることができた。それだけが、救いである。
とにかく薬物依存にならないための対策、それから、措置入院や医療保護入院など精神の人とその家族を救い支える切れ目のない制度の構築こそが必要なのではないだろうか。
パリや二-スやミュンヘンのテロとは少し違う。
障害のある人々を標的にするとは、悲しいばかりである。
経済合理性を追求する社会で生まれ、育つと結局、生産性が高いか低いかでなんでも評価する癖がついてしまう。
生産力のないものは悪で生産力のあるものは善という価値観である。金持ちが偉くて貧乏人は軽蔑する。元気で働けるものはいいが、働けずに施設で暮らしているのは悪、いらない存在と思うのだろうか。
そういう社会の序列のなかで、仮に脱落してしまうとどうなのか。さらに自分より弱く生産性の低いものが疎ましく思えてくるのかもしれない。
自分は序列の下のほうで苦労しているが、それより生産性がひくい「何もできない障がいのあるひと」が自分より、家族に愛され施設の職員に大切にされ、高度な医療や介護を受けていることが受け入れがたくなるのだろうか。
しかし、世の中を見渡せば、そんなに生産性の高い人ばかりではないことは明らかである。
むしろ、経済合理性の外側にいる人のほうが多いくらいだ。
子どもだって、将来は世の中を支える人になるだろうが、今は生産性は低い。
高齢者なんて、かつてはがんばって高度経済成長を支えてきたんだが、今では寝たきりや認知症になって要介護である。
障がいのある人だって、いろいろな障がいの程度もあり、たくさんいる。
がんで仕事から離れている人。うつ病で仕事に行けない人、それこそ精神的な疾病をかかえていて社会的生活が営めない人など、見わたせば半分は生産性が低いと思われる人ばかりである。
別の見方をすれば、我々は一生のうち、いつでも元気で働けるばかりではないということである。だれもが病や障がいや失業などで生活保護や入院や介護サービスの世話になる。そういう日のために我々は安くない税金を日ごろから払い、働けない人の分まで働く。自分だっていつか働けなくなるから、その日のためにね。
そういう風には考えられなかったのだろうか。
これは、ヘイトスピーチに近い構造と思うのである。ただただ嫌う、意味もなく嫌い排除する。貧しく荒れた心なのだろう。
それにしても、措置入院の問題がこれほどまでに表面化した事件もないだろう。
措置入院してもすぐに退院させられてしまうのは本当に問題である。
措置入院というのは自傷や他傷の危険があるということで非常に重い人ということである。
そういう人をそもそも簡単に退院させてしまう、そういう診断を下してしまう精神科医のレベルが低いという問題。
さらに精神病院は満杯で手が回らないという問題。
医療費削減という政策的な流れの中でなるべく入院期間は短くするのが最近の状況だから、すぐに退院させられるのも仕方がないという風潮。
さらに、退院しても家族におねがいするという依然として古い精神科医療の問題。
そして、家族にお願いするといっても本当に家族が引き受けたかどうかさえ確認しないで退院させてしまう無責任な病院と行政のやる気のなさ。
これだけそろえば、凶悪な事件もありうるだろう。
これは日本の精神科医療が全く持っていい加減であることの証拠である。
こんなことをしていたら、第二のやまゆり園事件が起きてしまう。
措置入院をした患者が退院する場合、徹底的に地域ケアの体制をつくるべきなのである。
高齢者だって、退院するときは在宅で生活できるか、訪問医療、訪問看護、訪問介護、訪問入浴、介護用ベッドなどいろいろ用意してからいよいよ退院である。
ましてや薬物依存や人格障害などで他傷の危険がある患者なのである。より一層の慎重さが必要だろうに。
我々の社会が精神障害の人を地域でどうケアするか、重度重複障がいのある人々の尊厳を守るのと同じくらい重要なことである。
この事件のあと、東大の福島智先生、立命館の立岩真也、そして長瀬修、早稲田の岡部耕典氏の談話が新聞にでていた。
この人たちを抜いてこの問題を語れる人はいないだろう。
彼らのコメントはどれも素晴らしかった。ナチスの障がい者殺戮と絡め、また、精神障がい者の犯罪率は必ずしも高いとは言えないことなどにふれていた。
この事件の問題をきちんと整理し、再発させない気概を感じることができた。それだけが、救いである。
とにかく薬物依存にならないための対策、それから、措置入院や医療保護入院など精神の人とその家族を救い支える切れ目のない制度の構築こそが必要なのではないだろうか。