サッカー日誌 / 2015年09月22日


2015年度サッカー殿堂入り(5)


鬼武健二さんの思い出

表彰式と記念パーティー
(9月10日 JFAハウス)

★広島出身、関西で活躍
 2015年度に日本サッカー殿堂入りした4人のうち、2人は慶応出身、2人は広島出身だった。
 慶応は松丸貞一さんと二宮寛さん、広島は下村幸男さんと鬼武健二さんである。
 慶応も、広島も、日本のサッカー史の中で重要な役割を果たしてきている。
 ぼく(牛木)個人としては、4人のなかでは、鬼武さんとの付き合いが、もっとも少なかった。
 というのは、鬼武さんは、広島出身で、主として関西のヤンマーで活躍されたからである。
 ぼくは、東京の新聞社のサッカー担当記者だったから、鬼武さんとの接触の機会は少なかった。
 しかし、早大のすぐれたプレーヤーとして、また、黄金時代のヤンマーの監督として、取材する機会はあったし、お世話になったこともある。

★多くの分野でユニークな功績
 今回の殿堂入りを機会に鬼武さんの業績を振りかえって、その業績が多くの分野にわたっていて、しかも、それぞれの分野でユニークな仕事をしていることを、改めて認識した。
 その中でも、1967年から1978年までヤンマーの監督を勤めていたときの業績は大きい。
 12年間に日本リーグで3回、天皇杯で3回優勝、リーグで
174試合に93勝している。日本リーグの最多勝記録である。
 当時のヤンマーは「新興チーム」だった。
 1965年に「日本サッカーリーグ」を創設するとき、関西からは手を挙げるチームがなかった。
 そこで、それほど有力チームではなかったヤンマー・ディーゼルに、無理に加盟してもらったのである。
 そのため日本リーグ1年目の1965年は8チーム中7位、2年目の1966年は最下位と成績は悪かった。

★ブラジルから選手を招く
 3年目の1967年に鬼武さんが監督になった。
 そして、釜本邦茂などの新人を多量に補強した。
 また後期からブラジル出身のネルソン吉村を加えた。
 ブラジル選手の移入は、日本のサッカーで初めての、画期的なことだった。
 この強化でヤンマーは5位にあがり、1971年にブラジルからジョージ小林も加わって、初優勝する。
 こういう成果は、当時のヤンマーのオーナーだった山岡浩二郎さんと鬼武監督の協力によるものだったと、ぼくは推察している。
 そのほかにも、鬼武さんは、セレッソ大阪の創設、Jリーグ・チェアマンのときの若手育成システム作りなど、いろいろな立場で、それぞれユニークな仕事を残している。
 そういう業績の裏にあったはずの苦労が、あまり知られていないように思う。
 殿堂入りのパーティーの席上で「自叙伝を書いて歴史に残すべきだよ」と言ったら「そんな」と苦笑いしていた。


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