サッカー日誌 / 2014年01月22日


メキシコ五輪銅メダルの裏話


浜本史朗さんに聞く
日本サッカー史研究会
(1月20日 JFAハウス会議室)

★報知新聞からの特派員
 日本サッカー史研究会1月例会では「メキシコ・オリンピック銅メダル」を取り上げた。これまでにも当時の選手たちに来てもらって何度か扱ったテーマである。
 それを改めて取り上げたのには事情がある。
 12月に「岡野俊一郎さんの文化功労賞を祝う会」があった。帝国ホテルでネクタイをして行かなければならないようなフォーマルな会だった。
 その席で、同じテーブルに見たことのあるような顔の人がいたが、誰だか分らなかった。
 そのうちに話しぶりから記憶がよみがえってきた。
 1960年~70年代にいっしょにサッカーを取材した報知新聞の浜本史朗さんだった。浜本さんは、1968年メキシコ・オリンピックのとき特派員として現地に行き、日本のサッカーが銅メダルを獲得した試合を自分の目で見ている。

★現地で見た唯一のサッカー記者
 そのころは外貨事情などもあって、一社から派遣される特派員は数人だった。報知新聞は2人だったという。その人数ですべての競技をカバーした。
 そういう状況だから、メキシコの現地で3位決定戦を取材した中に日本でサッカー担当だった記者は、ぼくの記憶では報知の浜本さんだけだったと思う。ほかの社は、日本では陸上競技やラグビーなどを専門にしていた記者だった。
 そういうわけで、浜本さんはメキシコ銅メダルを直接取材した貴重なサッカー記者である。
 その貴重な人材に数十年ぶりに出会ったので「これは、ジャーナリストが見た当時の様子を話してもらわなければならない」と引っ張りだしたわけである。
 浜本さんは快く引き受けてくれて、46年前の思い出を語ってくれた。

★日本選手はヘタだった
 そのころ、ぼくは協会の雑誌「サッカー」の編集を手伝っていて、メキシコ銅メダルに関する情報はできる限り集めて掲載した。しかし半世紀近くたって改めて話を聞くと、当時は報道されなかった裏話や気付かなかった見方が、いくつも出てきておもしろかった。
 「日本の選手たちはヘタだった。個人対個人の勝負ではたいてい負けていた。しかしチームとしては一番まとまっていたので銅メダルがとれた]
 「メキシコ後に銅メダル組の一部が去り、新しい選手が代表に入ってきたとき、小城(得達)選手が、ボールをとってもパスの受け手がどこに走るか分らないと言っていた」
 メキシコ五輪のときのイレブンは8年がかりで一つにまとめ上げられたチームだった。だから銅メダルを取れたのだが、メンバーが変わり始めると、1970~80年代の長期低迷の時代が始まったのだった。


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