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ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




華やかなタイルの家。墨田区東向島1-24。2009(平成21)年3月29日

旅館桜井から1軒おいた並びで、カフェーだったときの造りがよく残されている側は、もちろん鳩の街商店街の裏側である。撮影時は住宅であり、商店街側はかつて飲食店だったような造りだが、その店名も判らず、建物の名称は『赤線跡を歩く』(木村聡著、ちくま文庫、2002年)から頂戴した。建った時は右の建替えられた家との共同店舗で、その仕切りの柱状のものが建物の右端に残っている。かつては右の家も同じようなタイル装飾を施していたようだ。
この家が2009年8月22日に火災にあってしまった。火元は隣の家だということだが、現在はタイルの家から南の横丁の角までの家は取り壊され、すでに1軒は建て替えられたようだ。



左:鳩の街(特飲街)昭和28年頃。右:昭和43年8月18日

左の絵は『追憶の東京 下町、銀座編』(小針美男、河出書房新社、2006年、1500円)から引用。小針画伯の絵はこれで3点目の引用になる。資料としてお借りしているので、お許し願いたい。この絵の左の家が写真の家で、中央に描かれているベランダの壁が前に出ている家が旅館桜井。店の看板が描かれていないのが気になる。同じ通りを絵の奥から撮った昭和27年とされる写真では、袖看板を出している店が3軒見られる。
右上の写真は『東京 消えた街角』(加藤嶺男、河出書房新社、1999年、2500円)にあった写真。路地の両側にカフェーだった建物がほとんどそのまま残っている。
最近、株式会社デコから「加藤嶺男写真全集」の刊行が始まった。東京の区ごとに1冊にまとめるようで、『昭和の東京2台東区』は213枚の写真を収めて1800円という値段。求めやすいと思う。写真をお借りしたので宣伝しておく。


「華やかなタイルの家」の鳩の街商店街の側。飲食店だったような感じである。
2009(平成21)年3月29日

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旅館桜井
墨田区東向島1-24
2013(平成25)年3月17日

旅館桜井の建物そのものは「戦前に建てられて戦災を免れたもの」と言えるほど古いものには見えない。戦後すぐに、カフェーとして建てられたものかもしれない、とぼくは疑っている。当時は表通りでのカフェーの営業は禁止されていたそうなので、旅館桜井の並びの家は、商店街に向いた側は普通の商店にみえる。カフェーとして営業していても、商店街側の1階は一般の商店に貸していたのではないかと思う。
旅館桜井の鳩の街商店街に向いた方は、赤線廃止後に旅館を営業することになったときの造作なのだろうと、ぼくは思っている。楕円形の陶器の表札は築地などの料亭の勝手口でも見たような気がする。今ではかなり貴重なものなのかもしれない。玄関の引き戸は裏の玄関と同じようなデザインである。裏の玄関はカフェーの造りではないので、これも旅館の営業を始めるときに造り直していると思う。カフェーには出入り口は複数ある。ドアのところに女を立たせて客引きをさせていたようだから、ドアが2つあれば2人立たせられる、というためなのだろう。桜井のもう一つの出入り口は横にあって、洋風のドアだ。



旅館桜井。2009(平成21)年3月29日

鳩の街の赤線は、元々は玉の井の銘酒屋が3月10日の空襲で焼けてしまったため、この辺りの焼けていない家を借りて再開したのが始まりという。そういう状況ですぐ商売を再開するとはあきれたものだ、と思ってしまいがちだが、個々にどういう事情があったのかはうかがい知れないところである。肉親を亡くし食うや食わずの人が大勢いる中で、そこにかよってくる客の事情のほうがよほど不思議だ。
敗戦直後、政府は占領軍のための慰安施設に指定した中に鳩の街も入った。頼まれたわけでもないのにそんなことに一生懸命になる人がいたらしい。当時の世間の風潮もあるだろうが、あきれたものだ。鳩の街にも米軍兵士がやってきたかどうかは知らないが、占領軍は性病の感染もあって施設に対して不快感を示し、1946(昭和21)年に兵士の立ち入りを禁止する。この指定は占領終結まで解けなかった。日本政府の好意はあだとなった。その遺構が壁の「OFF LIMITS」の文字で、人には頼まれた以上の親切はしないほうがいいのかもしれない。

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木苺とその裏。墨田区東向島1-24。左:2013(平成25)年6月9日、右:同年3月17日

左写真は鳩の街商店街の木苺(ストロベリー)という居酒屋。路地を挟んだ右の黒板の壁は桜井旅館として鳩の街では最も注目を集めている建物。木苺の左はしもた屋らしい。そのさらに左の茶色の壁はハナヨシという弁当屋で夜は居酒屋になる店。木苺からの3軒は1985年の地図では「ママの街、テングヤ、ハナヨシ」で、1968年のそれでは「旅館桜井」と住居。現在旅館桜井で知られる建物は1968年の地図では「(旅館桜井の)別館」となっている。
木苺とテングヤは2階が後退していて古い建物のまま使われていると判る。ハナヨシもたぶん古い建物を改修して使っているのだろうと思う。この3軒はかつてのカフェーだった建物で、木苺とテングヤはその裏側を見れば一目瞭然である。



テングヤの裏。東向島1-24
2009(平成21)年3月29日

二つある出入り口の上に瓦を乗せたアーチの庇、緑とピンクのタイルを市松模様に貼った5本の円柱などが見られる家。二階にはベランダがあったはずだが、そこには部屋を増築している。

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四軒長屋。墨田区東向島1-13。2013(平成25)年3月17日

鳩の街の旧赤線からは外れていたと思われるところで、商店街からは東に2・3本外れた裏通り。取り壊しになるのも間近い感じだ。左写真の手前の家は鉢植えが枯れていて、すでに空き家らしい。2009年3月に撮った写真には、鉢植えの棚や踏み台などが家の前に、物干し台にも鉢植えが並んでいた様子が写っている。



旧カフェー。東向島1-22。2013(平成25)年6月9日

都荘の横の路地を入ったところにある、カフェーの特徴がよく残っている家。タイル張りの裾の上にある縦長窓の、角をアール付した窓枠などは貴重なものに思えてくる。

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左:器館赤沢、中:カワカミ生花店、右:ハト屋。墨田区京島3-23。2013(平成25)年5月5日

キラキラ橘商店街の中ほど。赤沢陶器店は路地との角にあり、建物の角を切り落とした看板建築にした造り。創業55年になるという。カワカミ生花店は2階建てだと思うが軒高がやけに低い。バーバーアラキと同様な造りなのだろうか。隣は「きもの彦佐」の字がみえるので呉服店らしい。その右の建物は「どらっくぱぱす」だったが、看板の文字を消して撤退したらしい。航空写真で見ると奥に長く伸びている建物で、パチンコ屋として建ったものだろう。1968年の地図では「パチンコ銀座」、1985年では「タカラパチンコ」である。
ハト屋はこの商店街では、最も有名な店かと思う。ここに店を出したのは昭和23年という。そのとき設置したガス窯で今もコッペパンを焼いているらしい。看板の「ハ」の字は、鎌倉鶴岡八幡宮の扁額をアレンジしたものだろうか。



器館赤沢の横を入ったところにある四軒長屋。京島3-23
左:2008(平成20)年12月6日、右:2013(平成25)年5月5日

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銀座松坂屋。中央区銀座6-10。1986(昭和61)年8月24日

昨日で閉店してしまった銀座松坂屋の昭和の写真はネットにはあまり出てないようなので、話題になっているうちにアップした。現在見られる外観の前のものだと思う。ぼくは百貨店で買い物をするような階級ではないので、閉店しても特別な感慨はない。
建物は1952(昭和27)年に竣工したもので、長谷部鋭吉の設計という。最初の建物は、1924(大正13)年12月に開業したときのものだから、関東大震災後すぐに建設にかかったのだろう。1952年の建物はその最初に建てたビルの南側に新館として建てたものらしい。1964(昭和39)年に旧館をアントニン・レーモンドの設計で建て直した。新館の壁面もその建物に合わせて改修している。写真はそのときの外観なのだろうか? 「新装開店した銀座松坂屋は、新橋がわからは緑、銀座四丁目からは白、陶器(信楽焼)の壁面がオパールのように色変わりするユニークな建物であった」(『松坂屋>銀座店の歴史』)というが、それは知らなかった。
裏にある松坂屋パーキングビルは1963(昭和38)年6月の竣工。地下3階、地上7階で300台を収容する。

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